第七十三章 抱えるもの
報告書を握った遊は、足早に廊下を進んでいた。
廊下には人が多かった。
朝から続いていた仕事の流れがまだ途切れていない。書類を抱えた者が行き交い、開いた扉の向こうからは話し声が漏れている。靴音が重なり、誰かが急いで駆けていく音が、その間を縫うように響いていた。
「だから、あれは明日の朝までに……」
すれ違った男の声が、ほんの一瞬だけ耳に入る。
「分かった、分かったって」
別の声が重なった。
遊は振り返らなかった。
その会話も、人の足音も、扉の開閉する音も、すぐに後ろへ流れていった。
何も変わっていない。
誰もがいつも通りに動いている。
誰かが誰かに声をかけ、誰かが笑い、誰かが書類を抱えて走っている。
その当たり前の景色の中を、遊だけが別の場所にいるような気がした。
早く。
早く鷹宮に伝えなければならない。
そう思うほど、足が勝手に前へ出る。
報告書を握る指に力が入った。
紙の端が指先に食い込み、汗ばんだ手のひらに張りつく。
影。
その言葉が、頭の中から離れない。
影だった。
ほぼ間違いない。
だったら、どうする。
決まっている。
止める。
空呑を止める。
それしかない。
そう考えるたびに、胸の奥が熱くなった。
廊下の窓から外を見る。
通りには人が溢れていた。
荷を抱えた男が歩き、子どもの手を引いた女がその横を通り過ぎる。店先では商人が声を張り上げ、少し離れたところでは若者たちが笑いながら歩いている。
風が吹いた。
どこかの店から、甘い匂いが流れてくる。
餡を炊いているのかもしれない。
焼いた菓子の匂いかもしれない。
遊は一瞬だけ足を緩めた。
こんなにも普通に、人が生きている。
誰も、自分たちが今どんなものを抱えているのか知らない。
知らないまま、今日を過ごしている。
その中の誰かが、影に呑まれるかもしれない。
そう思うと、胸が詰まった。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。
近くを通った男が、ちらりと遊を見る。
遊は気にせず歩いた。
靴音が、やけに大きく聞こえる。
コツ、コツ、コツ。
自分の足音だけが、頭の中を急かしているようだった。
角を曲がる。
前方に、鷹宮の執務室が見えた。
あと少し。
遊は報告書を握り直した。
紙が、くしゃりと鳴る。
「……止めるぞ」
誰に言うでもなく、呟いた。
扉の前に立つ。
息を一つ吐く。
それでも、胸の鼓動は収まらなかった。
遊は扉を三度叩く。
「入れ」
「おう」
遊は扉を開けると、そのまま机の前まで歩いていった。
「持ってきてやったぞ」
「なんだ、その言い方は」
「報告書だよ」
「分かってる」
「じゃあ受け取れ」
遊が机の上に報告書を置く。
鷹宮はそれを手に取った。
「……お前な」
「あ?」
「一応、俺はお前の上司なんだぞ」
「知ってるよ」
「だったら少しくらい敬意を払え」
「払ってるだろ」
「どこがだ」
「今、ちゃんと持ってきてやった」
「報告書を持ってきました、くらい言えねえのか」
「言える」
「じゃあ言え」
「……報告書を持ってきました」
「遅い」
「うるせえな」
鷹宮が笑う。
「ったく、お前は変わらんな」
「お互い様だろ」
「俺は成長した」
「どこが?」
「立場が上がった」
「偉そうになっただけだろ」
「それを成長と言うんだよ」
「初めて聞いたわ」
二人の間に、短い笑いが落ちた。
鷹宮は笑いながら報告書をめくっていく。
だが、何枚か頁を進めたところで、その表情が変わった。
遊も気づく。
「……どうだ」
「……影だな」
「やっぱりか」
「ああ」
鷹宮は最後の頁まで目を通した。
「間違いないのか」
「断定まではできねえ。でも、これまで確認された影の特徴とほぼ一致してる」
「記憶の欠落もか」
「確認されてる」
「……そうか」
鷹宮は報告書を閉じた。
遊は腕を組んだ。
「じゃあ、止めよう」
「何を」
「空呑を、だ。」
鷹宮が顔を上げる。
「一回止める。必要なら外す」
「……簡単に言うな」
「簡単な話だろ」
「どこがだ」
「人が苦しんでるんだぞ」
「分かってる」
「だったら止めりゃいい」
「遊」
「なんだよ」
「お前、今、目の前のことしか見えてないだろ」
「見えてるよ」
「見えてない」
「見えてるって」
「じゃあ聞くぞ」
鷹宮は椅子に深く腰を下ろした。
「空呑から供給されるものを待ってる人間が、何人いると思う」
「……」
「十万人か?」
「もっといる」
「二十万人か?」
「……もっとだ」
「そうだ。百万人を超える」
遊は黙った。
「その百万人が、明日から何もなくても生きていけると思うか?」
「……」
「病人を抱えてる家もある。仕事もある。生活もある。今日まで空呑があることを前提に暮らしてきた人間がいる」
「でも影が……」
「分かってる」
鷹宮の声は静かだった。
「影が危険なのは分かってる。放っておけばいいとも思ってない」
「だったら……」
「だからこそだ」
鷹宮は遊を見る。
「止めたら終わり、って話ではないんだ。」
遊は口を閉じた。
「影を止めるために空呑を止める。その結果、別の場所で何万人、何十万人が苦しむかもしれない」
「……」
「俺たちは今、二つの危険を比べてるんだ」
鷹宮は報告書を指先で叩いた。
「どっちを選んでも、誰かが傷つく」
「……だから評定か」
「ああ」
「俺は今すぐ止めるべきだと思う」
「知ってる」
「でも、お前は止められないと言う」
「正確には、俺たち二人だけで止めるとは決められない、だ」
「……」
「お前の考えが間違ってるって言ってるんじゃねえ」
鷹宮は少しだけ笑った。
「むしろ、お前がそう言うと思ってた」
「だったら最初から止めろよ」
「俺が勝手に止めたら、お前が怒るだろ」
「怒る」
「だろ?」
「でも今も怒ってる」
「知ってる」
遊が鼻を鳴らす。
「……評定、開くんだな」
「ああ」
「いつだ」
「できるだけ早く動かす」
「分かった」
「それまで、勝手に空呑を壊すなよ」
「壊さねえよ」
「本当か?」
「俺を何だと思ってんだ」
「思いついたらすぐ動く奴」
「……否定できねえ」
「だろ」
二人はまた笑った。
けれど、今度の笑いは長く続かなかった。
遊は報告書を見つめたまま、部屋を出た。
廊下に出る。
数歩歩いたところで、足が止まった。
「……くそ」
どうにもならない。
止めたい。
だが、止めれば別の誰かが苦しむ。
その事実を、鷹宮に突きつけられてしまった。
「遊?」
声がして、顔を上げる。
ひよりが立っていた。
「どうしたの、その顔」
「なんでもねえ」
「なんでもない人の顔じゃないよ」
「……鷹宮と話してきた」
「ああ……」
ひよりは、それだけで察したようだった。
遊の隣に座る。
「影だった?」
「ほぼ間違いねえ」
「そっか」
「止めたいって言った」
「うん」
「でも、簡単には止められねえって」
「……うん」
ひよりはしばらく黙った。
それから、小さく息を吐く。
「私もね」
「ん?」
「怖いんだ」
遊が見る。
「私も空呑に関わった人間だから。」
「ひより」
「分かってるよ。私一人で作ったわけじゃないし、私だけが責任を取れば済む話じゃないって」
ひよりは膝の上の手を見つめる。
「でもさ……それでも、私が関わったものが、人を苦しめてるんだよね」
「……」
「だから、遊が苦しそうにしてるのを見ると、私も苦しい」
ひよりは顔を上げた。
「ねえ、遊」
「なんだ」
「一人で抱えないでよ」
「……」
「私も一緒に考えるから」
「お前だって辛いだろ」
「うん。辛いよ」
ひよりは笑った。
「だから一緒に持つんじゃん」
「……」
「一人で持ったら重いけど、二人ならちょっと軽くなるでしょ」
「そう簡単なもんじゃねえだろ」
「知ってる」
「じゃあ……」
「でも、簡単じゃないから一人で持つ必要もないよ」
遊は何も言えなかった。
ひよりは少しだけ笑って、
「それにさ」
「ん?」
「今日、私すごくいいもの食べたんだよ」
「……なんだよ急に」
「花霞の月雫」
「知らねえ」
「知らないの? 今すごく人気なのに」
「菓子なんか知らねえよ」
「もったいないなあ」
ひよりは楽しそうに話し始めた。
「この前、澄乃と一緒に食べたの。南町の店のところにあるでしょ?」
「ああ、あの店か」
「そうそう。そしたら澄乃がね、『こんな綺麗なの食べるのもったいない』って言ってたの」
「うん」
「でも一口食べたら」
ひよりは真似をするように口元を押さえた。
「『これ、もう一個ください』って」
遊が吹き出した。
「お前、それ本当に澄乃か?」
「本当だって!」
「お前じゃねえの?」
「違う!」
「絶対お前だろ」
「違うってば!」
二人で笑った。
「それでね、鷹宮さんにも一個あげたの」
「鷹宮に?」
「うん」
「食ったのか、あいつ」
「食べたよ。それで、遊のこと話してた」
「俺の?」
「うん」
ひよりは急に姿勢を正した。
そして鷹宮そっくりの低い声を作る。
「『遊はな……考えるより先に動くからな』」
遊は眉をひそめる。
「……俺、そんなことしねえよ!」
「するって」
「しねえよ」
「する」
「しねえ」
「するって」
「なんだそりゃ」
「『まあ、それがあいつのいいところでもあるんだが』」
「いや、絶対言ってねえだろ、それ」
「言ってたよ」
「鷹宮が?」
「うん」
「……俺のこと何だと思ってんだ、あいつ」
「面白い奴」
「余計なこと言いやがって」
ひよりがケラケラ笑う。
その笑い声を聞いているうちに、遊もまた笑っていた。
さっきまで胸の中にあった重さが、ほんの少しだけ薄くなっている。
遊はひよりを見る。
笑っている。
いつものように。
けれど、その笑顔の奥に、ひより自身の苦しみがあることを、もう遊は知っている。
「……ひより」
「ん?」
「俺、一人で抱えてるわけじゃねえんだな」
「うん」
「じゃあ、お前も一緒に考えてくれ」
「もちろん」
「俺は、できるだけのことをやる」
遊は少し間を置いた。
「世の中のためになるんなら、なんだってやる」
「うん」
「だから、お前も少し……一緒に抱えてくれ」
ひよりは、少しだけ目を細めた。
「うん」
その返事は小さかった。
でも、遊にはそれで十分だった。
その後、評定を開くことが決まった。
まだ、何も決まってはいない。
影をどうするのかも。
空呑をどうするのかも。
そして……
影が生まれた本当の理由も。
それを知る者は、まだ誰もいなかった。
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