第七十章 痕跡
遊は林の中を駆け抜けた。
枝を払い、草を踏み分けながら、町人が話していた場所を頭の中で思い描く。
「この辺りのはずだ……。」
息を整える暇もなく、辺りを見回す。
木々の隙間から差し込む陽の光が、地面へまだらな影を落としている。
一見すれば、何の変哲もない林だった。
鳥のさえずりだけが静かに響く。
遊は歩みを緩めた。
一歩。
また一歩。
視線だけが地面を這うように動いていく。
その時だった。
遊の足が止まる。
「……。」
何も言わず、その場へしゃがみ込む。
目の前には、小さな窪み。
雨で削れたようにも見える。
誰かが足を取られた跡だと言われれば、それまでの大きさだった。
遊は指先で土を払う。
縁をなぞる。
角度を変え、陽の光へかざすように地面を見つめる。
やがて、小さく息を吐いた。
「違う……。」
穴じゃない。
その言葉は、遊の胸の中だけで形になっていく。
普通なら、土は上から押され、沈み込んで窪みになる。
だが、この土は違った。
縁が、わずかに外へ押し広げられている。
土の筋も、石の並びも、沈んだ形ではない。
まるで、何かが内側から地面を押し上げ、そのまま抜け出したかのようだった。
「……内側から、持ち上がってる。」
遊の瞳に、確信が宿る。
その時、後方から慌ただしい足音が近づいてきた。
「遊っ!」
ひよりだった。
その後ろからは、
「ま、待ってください!」
「荷箱が!」
「測定具が落っこちる〜。」
院士たちが機材を抱え、がちゃがちゃと音を立てながら林を駆けてくる。
ようやく遊の隣までたどり着くと、一人の院士が肩で息をしながら苦笑した。
「急に走り出さないでくださいよ〜。」
遊は振り返りもせず、小さく笑う。
「悪ぃ。」
「でも、間に合った。」
ひよりも息を整えながら隣へしゃがみ込む。
「何か見つけたの?」
遊は穴の縁を指差した。
「見てみろ。」
ひよりは目を凝らす。
だが、見えるのは小さな窪みだけだった。
「……穴?」
「いや。」
遊は静かに首を振る。
「ただの穴じゃねぇ。」
院士たちも次々と集まり、地面を囲む。
一人が首を傾げた。
「雨で削れたようにも見えますが……。」
「そう見えるよな。」
遊は土を指先ですくい上げた。
「でも違う。」
土をそっと戻す。
「よく見ろ。」
「縁が盛り上がってる。」
ひよりが顔を近づける。
「あ……。」
「本当だ。」
遊は続ける。
「上から力が加わったなら、土は押し潰される。」
「でも、これは逆だ。」
「内側から押し広げられてる。」
院士たちは黙って地面を見つめた。
遊は竹べらを受け取り、慎重に土の表面を削っていく。
少しずつ。
少しずつ。
決して力を入れすぎない。
土を傷つけぬよう、息を止めるほど慎重に。
やがて。
「……遊。」
ひよりが小さく声を漏らす。
削られた土の下から、色の違う層が姿を現した。
黒とも灰ともつかない、不思議な色。
表面には、ガラスのような鈍い艶がある。
遊は指先でそっと触れた。
硬い。
だが、石とは違う。
土とも違う。
「……溶けてる。」
その一言に、誰も口を開かなかった。
遊は静かに立ち上がる。
「このままじゃ分からねぇ。」
院士たちを見回す。
「周りの土ごと切り出す。」
「崩すなよ。そっとだ。そっと。」
「研究院へ持ち帰って調べる。」
「はい。」
院士たちはすぐに道具を広げ、変質した地面を慎重に囲い始めた。
その様子を見つめながら、遊はもう一度だけ、その小さな窪みへ視線を落とす。
胸の奥に広がるのは、発見した喜びではなかった。
重く、冷たい不安だった。
もし、この痕跡が炉とつながるものなら。
もし、この穴が影の残した爪痕だとしたら。
自分たちが築き上げてきたものは、人々の未来だけでなく、新たな災いまでも生み出してしまったことになる。
遊は拳を握り締める。
「……頼む。」
誰に向けた願いだったのか、自分でも分からなかった。
「俺の考えが……外れていてくれ。」
林を吹き抜ける風だけが、その小さな願いを静かにさらっていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。引き続き『器』の世界をお楽しみください。




