第六十九章 きっかけ
現場での検証を終えた遊は、最後に武備方(国の守りと兵を預かる役所)の男たちのもとへ歩み寄った。
腰に下げていた袋から、一本の竹筒を取り出す。
「世話になったな。」
男たちは顔を見合わせる。
遊は竹筒を差し出した。
「仕事が終わったら、一杯やってくれ。」
「俺からの、ささやかな礼だ。」
武備方の男は少し驚いたように目を丸くし、それから深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。」
「ありがたく頂戴いたします。」
遊は照れくさそうに頭をかき、小さく笑った。
「大したもんじゃねぇよ。」
「これからも、よろしく頼む。」
「はい!」
短い返事だった。
だが、その一言には、この町を守る者としての誇りが込められていた。
遊も、それ以上は何も言わなかった。
互いに一礼を交わし、一行は現場を後にする。
歩き始めても、遊の頭の中は先ほどの現場から離れなかった。
地面。
草木。
空気。
持ち物。
調べられるものは、すべて調べた。
それでも、何一つ異常は見つからなかった。
「……何も残ってねぇ。」
ぽつりと漏らす。
隣を歩くひよりが静かに応えた。
「きれいすぎるくらいだったね。」
「ああ。」
遊は前を向いたまま頷く。
「それが、なんか引っ掛かんだよなぁ。」
人が一人、忽然と姿を消した。
もし本当に影が現れたのなら、何らかの痕跡が残るはずだ。
それなのに、現場は何事もなかったかのように静まり返っていた。
考えれば考えるほど、訳がわからなくなる。
それともう一つ、気になることがあった。
目撃証言だ。
「六尺はある大男だった。」
「いや、小さな子どもほどしかなかった。」
「黒いものが動いた。」
町で聞き集められた話は、どれも食い違っている。
そして、最初に老人が消えたことへ気付いた女性だけは、首を振っていた。
『私は……何も見ていません。』
その言葉が、遊の胸に残っていた。
(誰かが見間違えたのか……。)
(それとも、まさかとは思うが、姿を変えられるのか。)
遊はすぐに、その考えを振り払う。
(いや。)
(証拠がねぇ。)
(思い込みで答えを決めるな。)
自分へ言い聞かせるように、小さく息を吐く。
院士である以上、確かめられないことを事実にはできない。
だからこそ、苦しかった。
その時だった。
市場の脇を歩いていた町人たちの話し声が、ふと耳へ飛び込んできた。
「そういや、あの穴ぁ、まだそのままなんだろ?」
「誰かが埋めるって話だったが、結局そのままだ。」
「妙な穴だったよな。」
「掘ったようにも見えねぇし。」
遊の足が止まる。
視線だけが、声のした方へ向いた。
「おい……今、何て言った?」
町人たちは驚いて振り返る。
「なにって…?」
遊は一歩近づく。
「あんたらが話してた穴だ。」
「どこにある。」
「教えてくれ。」
町人たちは顔を見合わせる。
「あ、ああ……。」
「川向こうの林を抜けた先だけど……。」
最後まで聞かなかった。
「ありがとう!」
そう言うが早いか遊は駆け出していた。
「ひより!」
「来い!」
「えっ、ちょ、ちょっと待って!」
ひよりが慌てて追い掛ける。
その後ろでは、測定道具を抱えた院士たちが顔を見合わせる。
「ゆ、遊さん!」
「待ってください!」
荷箱を抱え、竹筒を揺らしながら、一斉に走り出した。
町人たちは、その様子をぽかんと見送り、
「……何だったんだ、今の。」
と首をかしげるのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。引き続き『器の世界をお楽しみください。』




