第六十八章 手がかり
翌朝。
研究院の支度部屋では、白衣を脱ぐ音が静かに響いていた。
遊は袖を通していた白衣を畳み、棚へ置く。
代わりに身につけたのは、ごくありふれた町人の着物だった。
ひよりも髪をまとめ直し、町娘と変わらぬ装いへと着替える。
同行する院士たちも同様だった。
「院士と分かれば、余計な不安を広げる。」
鷹宮は身支度を整えながら言う。
「町は、まだ何も知らない。騒ぎは最小限に抑えたい。」
遊は静かに頷いた。
「俺たちは犯人探しに行くんじゃねぇってことだ。」
「何が起きたのかを知りに行く。それが目的だ。」
その言葉に、ひよりも小さく頷く。
支度を終えた一行は、町外れへ向かった。
◇
現場には、武備方(国の守りと兵を預かる役所)の者たちが立っていた。
縄が張られ、人払いがされている。
鷹宮が身分札を示すと、武備方の男は深く一礼した。
「現場は、そのまま残しております。」
「ご苦労。」
遊たちは縄をくぐり、中へ入る。
そこには、老人の近親者と思われる若い女性が座り込んでいた。
目元は赤く腫れ、眠れていないことが一目で分かる。
ひよりが静かに寄り添い、柔らかな声で話しかけた。
「つらい中、お時間をいただいてありがとうございます。」
女性は小さく頭を下げる。
遊は周囲を見回してから、ゆっくりと尋ねた。
「その時のことを、覚えている範囲で教えてくれ。」
女性は唇を噛み、ゆっくりと話し始めた。
「……私は、その場を見ていないんです。」
「少し目を離していて……戻ったら、おじいちゃんがいなくなっていました。」
震える声だった。
「何が起きたのか、本当に分からないんです。」
遊は黙って耳を傾ける。
「あとから……町の人たちが言っていました。」
「黒い影を見たって。」
一度言葉を切る。
「でも、その話も人によって違うんです。」
「六尺くらいあったって人もいれば、小さな子どもくらいだったって人もいて……。」
困ったように首を振る。
「私は……そんなもの、見ていません。」
遊は短く頷いた。
「分かった。」
それ以上、その話を掘り下げることはしなかった。
目撃証言は大切だ。
だが、人の記憶は混乱の中で容易に揺らぐ。
今、信じるべきものは、現場に残された事実だけだった。
遊はしゃがみ込み、地面へ目を落とす。
草をかき分け、土を指先ですくう。
ひよりは記録を書き留め、同行した院士たちは周囲の空気や土を採取していく。
武備方は周囲へ目を配り、静かに警戒を続けていた。
時間だけが過ぎていく。
しかし、何も見つからない。
土も。
草も。
空気も。
異変らしい異変は、一つとして存在しなかった。
「……何もねぇ。」
遊が小さく呟く。
「無さすぎる。」
ひよりも静かに答えた。
遊は土を払いながら立ち上がる。
「ああ。」
「それが、気持ち悪ぃ。」
誰も言葉を返せなかった。
調べれば調べるほど、この現場は”きれいすぎる”。
まるで、何も起きていなかったかのように。
だが、人は一人、確かに消えている。
その矛盾だけが、遊の胸に重く残っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。引き続き器の世界をお楽しみください。




