第六十六章 評定の朝
朝の光が、大きな硝子窓から研究院の回廊へ静かに差し込んでいた。
石造りの壁を柔らかく照らし、磨き上げられた木の床には、庭木の影がゆっくりと揺れている。
普段と変わらぬ朝。
それでも、院の空気はどこか張り詰めていた。
行き交う院士(研究を担う者)たちは、いつものように挨拶を交わしながらも、その足取りはどこか早い。
抱えた書付を胸に、奥の間へ急ぐ者。
人工投影板(記録や設計図を光で映し出す板)を抱え、小走りに階段を上る者。
誰も大きな声を出さない。
小さなざわめきだけが、静かな回廊を流れていた。
「町で、人が消えたらしい。」
「黒い人影が見えたそうだ。」
「まさか……。」
囁く声は、すぐに飲み込まれる。
誰も確かなことは知らない。
だからこそ、不安だけがゆっくりと広がっていた。
遊は窓辺に立ち、庭の向こうを見つめていた。
その視線の先には、山のようにそびえ立つ巨大な炉がある。
静かな鼓動。
変わらぬ律動。
観測録にも異常はない。
それでも、胸の奥に引っ掛かった違和感だけは消えなかった。
「……理屈が合わねぇ。」
誰に聞かせるでもなく呟く。
その声に、背後からひよりが歩み寄った。
「まだ考えてるの?」
「ああ。」
遊は炉から目を離さない。
「もし、あれが本当に影なら……。」
言葉が止まる。
自分で口にしながら、その続きを認めたくなかった。
ひよりも静かに炉を見つめる。
「CUYONは、ちゃんと受け止めてる。」
「そうだ。」
「炉も安定してる。」
「そうだ。」
二人の答えは一致している。
だからこそ、説明がつかない。
そこへ、廊下の奥から落ち着いた足音が響いた。
「遊。」
振り返る。
鷹宮だった。
いつもと変わらぬ穏やかな表情。
だが、その目には僅かな厳しさが宿っている。
「刻が来た。」
遊は頷く。
「評定(研究院と国の関係者が重大な案件について協議する正式な会合)の支度が整った。」
短い言葉だった。
だが、その一言だけで、遊は今日がこれまでとは違う一日になることを悟った。
二人は無言のまま歩き出す。
長い回廊を進み、石段を上る。
研究院の最上階。
重厚な扉の向こうには、この国の未来を左右する者たちが、すでに集まり始めていた。
評定(国と研究院の要人が、重大な案件について協議する正式な会合)の間は、静まり返っていた。
重厚な石壁に囲まれた広間の奥には、大きな硝子窓が据えられている。
その向こうには、山のようにそびえる炉が静かに佇んでいた。
規則正しく脈打つその姿は、この国の繁栄そのものだった。
長机を囲むように、各々の席へ人々が着いていく。
鷹宮。
遊。
ひより。
そして、国を預かる者たち。
武備方(軍部:国の守りと兵を預かる役所)は腕を組み、険しい表情で窓の外を見つめている。
勘定方(財務:財政を司る役所)は机の上へ書付を丁寧に並べ、一枚一枚に目を通していた。
産業方(利権側: 商い、工房、流通、炉の運用を担う役所)は静かに周囲を見回し、誰が最初に口を開くのかを窺っている。
古参の院士たちも席へ着き、部屋には紙をめくる音だけが小さく響いていた。
やがて、重い扉がゆっくりと開く。
誰かが名を告げることもない。
しかし、その場にいた全員が自然と視線を向けた。
玄堂が姿を現した。
変わらぬ足取りで席へ向かう。
誰かに威圧感を与えるわけでもない。
それでも、その姿があるだけで、部屋の空気は静かに引き締まっていく。
玄堂は一人ひとりの顔を見渡すと、小さく頷き、自らの席へ腰を下ろした。
鷹宮が静かに立ち上がる。
「それでは、始めよう。」
その一言で、評定の間から私語が消えた。
鷹宮は一枚の書付を手に取る。
「今朝早く、町役より一件の届けがあった。」
紙を置く音が響く。
「町外れにて、一名が行方知れずとなった。」
誰も口を挟まない。
「目撃者は、黒い人影のようなものを見たと証言している。」
部屋に、わずかなざわめきが走る。
だが、そのざわめきもすぐに収まった。
鷹宮は落ち着いた口調のまま続ける。
「現時点で、証言以外に確かな裏付けはない。」
「山の獣によるものか。」
「事故なのか。」
「あるいは、まったく別の事象なのか。」
「まだ何一つ断定はできない。」
その言葉を聞きながら、遊は静かに目を閉じた。
胸の奥にある違和感は、消えない。
だが、それを”事実”として語れるだけの証は、まだ自分の手元にもなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。引き続き、器の世界をお楽しみください。




