第六十五章 異変
研究院の朝は、変わらず穏やかだった。
回廊には木漏れ日が落ち、院士たちは抱えた書板や観測録を手に、それぞれの持ち場へと足を運んでいる。
どこかで筆が走る音がする。
誰かが湯を沸かしている。
炉は今日も変わらぬ鼓動を刻み続けていた。
そんな日常へ、小さなざわめきが流れ込む。
正門から一人の使いが駆け込んできた。
息を切らしながら受付へ何事かを伝える。
その顔色を見た院士は表情を変え、書状を受け取ると足早に奥へ消えていった。
それから程なくして。
「遊。」
名を呼ばれ、遊は振り返る。
「……なんだ?」
若い院士が一枚の書付を差し出した。
「町役より届けが入りました。」
遊は受け取り、何気なく目を落とす。
だが、一行目を読んだところで、その手が止まった。
『町外れにて一名行方知れず。目撃者は黒き人影を見たと証言。』
遊は無言のまま、最後まで読み進める。
もう一度、最初から読む。
紙を持つ手に、わずかに力が入った。
「……遊?」
ひよりが様子をうかがう。
遊は返事をしない。
書付から目を離さないまま、小さく呟いた。
「……おかしい。」
「何が?」
ひよりが隣へ来る。
遊は紙を差し出した。
ひよりも読み終えると、小さく首をかしげた。
「行方知れず……。」
「違う、違う。そこじゃねぇよ。」
遊は炉の方へ目を向ける。
「黒い人影って書いてんだろ?」
ひよりも言葉を失う。
遊はゆっくり息を吐いた。
「もし……俺が考えてる通りなら。」
「……。」
「でも、理屈が合わねぇ。」
そう言い残すと、遊は歩き出した。
「あ、遊!」
ひよりが後を追う。
二人が向かった先は、研究院の奥。
巨大な炉だった。
規則正しい鼓動。
揺らぎのない導管。
観測録にも異常は記されていない。
遊は人工投影板(記録や設計図を光で映し出す板)へ手を置き、直近数日の観測を映し出す。
流入量。
炉力。
CUYONとの接続。
どれも正常。
「……そんな馬鹿な。」
思わず漏れる。
その時だった。
炉の石段へ、小さな足音が響いた。
「ユウ。」
CUYONだった。
遊は振り向く。
「お前、何か変わったことは?」
CUYONはしばらく考える。
首を傾げる。
「……ないよ。」
遊は少しだけ肩の力を抜いた。
しかし。
「でも。」
「……ん?」
CUYONは炉へ手を添えたまま、小さな声で言った。
「かなしいの。」
「……?」
「いっぱい流れてきた。」
遊の表情が変わる。
「昨日より?」
CUYONは頷く。
「うん。」
「でも、みんな消えた。」
遊は眉をひそめた。
「消えた?」
「うん。」
CUYONは言葉を探すように空を見上げる。
「……ちゃんと、おくったよ。」
その言葉に、遊は何も返せなかった。
CUYONが嘘をつくことはない。
ならば、炉も正常。
CUYONも正常。
それなのに、町では黒い人影が現れた。
理屈が、合わない。
その沈黙を破るように、背後から落ち着いた声が響いた。
「遊。」
振り返る。
そこには、鷹宮が立っていた。
その表情は穏やかだったが、目だけは鋭い。
「報せは読んだな。」
「ああ。」
「評定(研究院の幹部や関係者が重要事項を協議する会合)が開かれることになった。」
遊は静かに頷く。
「玄堂さんも、お見えになる。」
その一言で、空気が変わった。
遊は書付を握り締める。
胸の奥に湧き上がるのは、不安ではない。
確かめなければならないという思いだった。
もし、この出来事が炉に関わるものなら。
もし、器でも受け止めきれない何かが起き始めているのなら。
それは、一人の行方知れずでは終わらない。
遊は巨大な炉を見上げる。
静かな鼓動は、何事もなかったかのように響き続けていた。
だが、その静けさは、嵐の前の静寂にも思えた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。引き続き、器の世界をお楽しみください。




