第六十四章 静かな兆し
朝の市は、今日も変わらぬ賑わいを見せていた。
店先へ並べられた野菜には朝露が残り、焼きたての団子から立ちのぼる甘い香りが、人々の足を自然と引き寄せる。
魚を売る威勢のいい声。
荷車の軋む音。
子どもたちの笑い声。
商いを始める者も、旅へ出る者も、誰もが今日という一日を疑うことなく迎えていた。
町の外れへ続く細い路地を、一人の老人が歩いていた。
名は弥助。
毎朝欠かさず、この道を通って市へ薪を運ぶ。
もう何十年も変わらぬ日課だった。
「今日は少し暑くなりそうじゃな。」
誰に言うでもなく呟く。
空を見上げると、雲一つない青空が広がっていた。
その時だった。
ふと、足が止まる。
路地の先。
朝日が差し込まぬ薄暗い場所に、誰かが立っているように見えた。
「……おや。」
旅人だろうか。
具合でも悪くしたのか。
老人は目を細める。
「どうした。そんなところで。」
返事はない。
一歩。
また一歩。
近づくたび、その姿はぼやけて見えた。
黒い着物を着た人にも見える。
煙にも見える。
陽炎にも似ていた。
「聞こえんのか?」
老人がもう一歩踏み出した、その瞬間。
黒いものが、ふわりと揺れた。
風ではない。
人ではない生き物のように。
老人は思わず足を止める。
「……誰じゃ。」
その影が、ゆっくりと顔を向けた。
顔が、なかった。
あるのは、人の形をした黒い揺らぎだけ。
老人の喉が、ごくりと鳴る。
逃げよう。
そう思った時には、もう遅かった。
黒い揺らぎは音もなく広がり、朝靄が流れるように老人の体を包み込んだ。
「な……。」
それが最後の言葉だった。
叫び声もない。
争う音もない。
路地は再び静けさを取り戻した。
やがて、買い物籠を抱えた若い女が路地へ入ってくる。
「あら?」
誰もいない。
道の真ん中には、薪を束ねた縄と、履き古した草履だけが残されていた。
女は辺りを見回す。
「弥助さん……?」
返事はない。
風が吹く。
竹垣が静かに鳴る。
女はもう一度、小さく呼んだ。
「弥助さん。」
やはり返事はない。
その声を聞き、近くの店から人が一人、また一人と集まり始めた。
「どうした?」
「いや……弥助さんが……。」
「転んだのか?」
「違うの。」
女は草履を指差した。
「さっきまで、ここにいたはずなの。」
皆が顔を見合わせる。
誰も笑わない。
誰も言葉を続けられない。
そこには、説明のつかない静けさだけが残されていた。
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