表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
器 -UTSUWA- 零  作者: 猿吉


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
64/70

第六十四章 静かな兆し

 朝の市は、今日も変わらぬ賑わいを見せていた。


 店先へ並べられた野菜には朝露が残り、焼きたての団子から立ちのぼる甘い香りが、人々の足を自然と引き寄せる。


 魚を売る威勢のいい声。


 荷車の軋む音。


 子どもたちの笑い声。


 商いを始める者も、旅へ出る者も、誰もが今日という一日を疑うことなく迎えていた。


 町の外れへ続く細い路地を、一人の老人が歩いていた。


 名は弥助。


 毎朝欠かさず、この道を通って市へ薪を運ぶ。


 もう何十年も変わらぬ日課だった。


「今日は少し暑くなりそうじゃな。」


 誰に言うでもなく呟く。


 空を見上げると、雲一つない青空が広がっていた。


 その時だった。


 ふと、足が止まる。


 路地の先。


 朝日が差し込まぬ薄暗い場所に、誰かが立っているように見えた。


「……おや。」


 旅人だろうか。


 具合でも悪くしたのか。


 老人は目を細める。


「どうした。そんなところで。」


 返事はない。


 一歩。


 また一歩。


 近づくたび、その姿はぼやけて見えた。


 黒い着物を着た人にも見える。


 煙にも見える。


 陽炎にも似ていた。


「聞こえんのか?」


 老人がもう一歩踏み出した、その瞬間。


 黒いものが、ふわりと揺れた。


 風ではない。


 人ではない生き物のように。


 老人は思わず足を止める。


「……誰じゃ。」


 その影が、ゆっくりと顔を向けた。


 顔が、なかった。


 あるのは、人の形をした黒い揺らぎだけ。


 老人の喉が、ごくりと鳴る。


 逃げよう。


 そう思った時には、もう遅かった。


 黒い揺らぎは音もなく広がり、朝靄が流れるように老人の体を包み込んだ。


「な……。」


 それが最後の言葉だった。


 叫び声もない。


 争う音もない。


 路地は再び静けさを取り戻した。


 やがて、買い物籠を抱えた若い女が路地へ入ってくる。


「あら?」


 誰もいない。


 道の真ん中には、薪を束ねた縄と、履き古した草履だけが残されていた。


 女は辺りを見回す。


「弥助さん……?」


 返事はない。


 風が吹く。


 竹垣が静かに鳴る。


 女はもう一度、小さく呼んだ。


「弥助さん。」


 やはり返事はない。


 その声を聞き、近くの店から人が一人、また一人と集まり始めた。


「どうした?」


「いや……弥助さんが……。」


「転んだのか?」


「違うの。」


 女は草履を指差した。


「さっきまで、ここにいたはずなの。」


 皆が顔を見合わせる。


 誰も笑わない。


 誰も言葉を続けられない。


 そこには、説明のつかない静けさだけが残されていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ