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器 -UTSUWA- 零  作者: 猿吉


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第五十八章 動き出した意志

夕陽は西の山並みへ静かに沈み、茜色に染まっていた空へ、ゆっくりと藍色が滲み始めていた。


町を照らす灯柱には、一つ、また一つと淡い明かりがともる。


橙色の光は石畳へやわらかく落ち、帰路につく人々の影を静かに伸ばしていた。


格子窓の向こうからは夕餉の支度をする音が聞こえる。


鍋の蓋が小さく鳴り、香ばしく焼ける魚の匂いと炊き立ての米の甘い香りが、夜風に乗って町を漂っていた。


どこか遠くでは、寺院の鐘が一つ鳴る。


低く澄んだ音色は町を包み込み、人々へ一日の終わりを静かに告げていた。


遊は、玄堂と別れ、ひよりとともにその町並みを並んで歩いていた。


言葉はない。


けれど、その沈黙は重苦しいものではなかった。


石畳を踏む足音だけが、一定の調子で二人の間を流れていく。


風が吹いた。


ひよりの髪がふわりと揺れ、遊の肩へそっと触れる。


「……今日は、ずいぶん静かだね。」


ひよりが前を向いたまま、小さく笑う。


遊は少しだけ肩の力を抜き、息をついた。


「考え事してた。」


「澪のこと?」


遊は答える代わりに、小さく頷く。


胸に抱えた手記へ、自然と視線が落ちた。


紙はもう何度も読み返したせいで、少しだけ角が丸くなっている。


「最初はな。」


遊はゆっくり口を開いた。


「最後まで読んでも答えが書いてねぇんだ。」


ひよりは黙って耳を傾ける。


「どうして書かなかったんだろうってな。」


少し間を置いて、遊は静かに笑った。


「でも違ったみてぇだ。」


その笑みは、何かを思い出したようでもあり、ようやく理解できたようでもあった。


「澪は、答えを書かなかったんじゃない。」


「書かないことを選んだんだ。」


夜風が二人の間をすり抜ける。


灯りが揺れ、石畳に映る影もゆっくりと形を変えた。


「澪は炉を研究してたわけじゃねぇ。」


「感情……だよね。」


「ああ。」


遊は頷いた。


「人の感情が、どう生まれて、どう変わって、どう残っていくのか。それだけを見続けてた。」


「俺はエネルギーを追い続けていた。」


「澪は感情を追い続けていた。」


「だから最初は、まったく違う研究をしてると思ってた。」


遊は少し空を見上げる。


夕焼けは消え、群青色の空に最初の星が淡く瞬き始めていた。


「でも、本当は違った。」


「あいつは研究所へ来たばかりの頃、俺の数式を見て笑ったんだ。」


『きれいな数式だねってな』


誰も理解しなかった式を見て、澪だけがそう言った。


「今なら分かる。」


「あの頃から、澪には見えてたんだ。」


「俺が向かおうとしていた場所が。」


ひよりは優しく笑う。


「遊にも、今なら澪が見ていた景色が見えてる。」


遊は照れくさそうに笑い、小さく頷いた。


「たぶんな。」


しばらく二人は黙って歩いた。


町は静かだった。


誰かが誰かを急かすこともない。


夜はゆっくりと町へ降りてくる。


遊はぽつりと呟く。


「俺たちは、同じ場所へ向かってた。」


「ただ、登る道が違っただけだった。」


その声は、どこか懐かしさを帯びていた。


「澪が最後に辿り着いたのは、感情は消えるんじゃねえってことだった。」


「形を変えて残る。」


「誰かの中に。」


「心あるものの中に。」


ひよりはその言葉を静かに繰り返す。


「……心あるもの。」


「ああ。」


「人じゃない。」


「心を持った何かなら、きっと同じなんだ。」


遊は手記を軽く握りしめた。


「だから澪は、自分の意思を未来へ残そうとはしなかった。」


「残したかったのは、自分の意志じゃねえ。」


「心あるものが、それぞれ当たり前に持っているものだった。」


迷うこと。


信じること。


誰かを守りたいと願うこと。


時には、大勢のために一人を切り捨てようとすることさえ。


そのどれもが、心から生まれる。


「もし、全部知っている人間が未来の答えを残したら。」


遊は静かに言う。


「未来は一つしかなくなる。」


「澪は、それを望まなかった。」


ひよりは足を止めず、遊の横顔を見つめる。


「だから……選ぶことを未来へ残した。」


遊はゆっくり頷いた。


「そう思う。」


少しだけ風が強く吹いた。


木々の葉が擦れ合い、静かな音を立てる。


遊は夜空を見上げた。


「でも、一つだけ分かったことがあんだ。」


「澪は二つの意思を残した。」


「世界を導こうとする意思。」


「目の前の誰かに寄り添おうとする意思。」


「その二つは今、CUYONと炉に宿っている。」


ひよりは静かに息を呑む。


「どっちが正しいかは、まだ分からねぇな。」


「でも、そのどちらを選ぶか。」


「その時は、そう遠くねぇ。」


二人は再び前を向く。


夜の町は何も知らないように穏やかだった。


灯りは揺れ、人々は家へ帰り、誰かを待つ食卓には湯気が立ちのぼる。


そんな、守りたくなるほど静かな日常の中で。


未来は、誰にも気づかれないまま、ゆっくりと動き始めていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。引き続き『器-UTSUWA-零』を

お楽しみください。

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