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器 -UTSUWA- 零  作者: 猿吉


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第五十七章 寄り添う意志

夕暮れの光は、研究所の長い廊下を静かに染めていた。


窓から差し込む橙色の光が木の床を照らし、廊下を歩く者たちの影をゆっくりと伸ばしていく。


昼間まで響いていた機械の音も少しずつ静まり、研究員たちの足音もまばらになっていた。


一日の終わりが近づいている。


それでも、遊の机には数枚の設計図が広げられたままだった。


鉛筆を握る手は止まり、視線だけが紙の上を何度も往復している。


答えはどこにも見つからない。


炉は変わり始めている。


CUYONもまた変わり始めている。


そのどちらも、自分が望んだ未来だったはずなのに、今は少しだけ怖かった。


机の端に置かれた湯呑みから立ち上る湯気は、もう細くなっている。


遊はそれに気づき、ようやく息を吐いた。


その時だった。


控えめな戸を叩く音が研究室へ響く。


「入るぞ」


聞き慣れた低い声だった。


玄堂である。


遊は立ち上がる。


「玄堂さん」


玄堂は返事をする代わりに、小さな木箱を両手で抱えていた。


古い桐の箱だった。


年月を重ねた木肌には細かな傷が刻まれ、角は幾度となく人の手で触れられた跡が残っている。


玄堂は机の前まで歩くと、音を立てないよう静かに箱を置いた。


その手つきには、不思議なほど慎重さがあった。


遊は箱を見つめる。


胸の奥で何かがざわつく。


「これは……」


玄堂は箱へ視線を落としたまま答える。


「澪から預かっていたものだ」


遊の指先が止まる。


部屋の空気が一瞬だけ重くなった。


「澪が……」


玄堂は静かに頷く。


「生前、お前に渡してほしいと頼まれていた」


遊は思わず箱へ手を伸ばしかける。


だが、その指は途中で止まった。


怖かった。


この箱を開けば、もう後戻りはできない。


そんな予感があった。


玄堂はその様子を黙って見ていた。


急かすこともしない。


慰めることもしない。


ただ、遊自身が手を伸ばすのを待っていた。


やがて遊は、小さく息を吸う。


震えそうになる指先をゆっくりと箱へ添えた。


蓋を持ち上げる。


乾いた木の擦れる音が、静かな部屋へ溶けていく。


中には几帳面に束ねられた手記。


折り目一つない設計図。


丁寧に綴じられた研究記録。


そして、小さな布に包まれた二つの石。


遊は布には触れず、一番上の手記をそっと取り上げた。


紙からは、古い墨と乾いた木の香りが微かに漂う。


その匂いだけで、澪が机へ向かっていた姿が脳裏によみがえった。


ページをめくる。


流れるような筆跡。


見慣れた文字だった。


遊は思わず頬を緩める。


「懐かしい字だな」


その声は笑っているようで、少しだけ震えていた。


玄堂は窓の外へ目を向ける。


夕焼けが山の稜線を赤く染め始めていた。


遊は静かに読み進める。


『影は、人の心が残した形である』


『悲しみも、怒りも、後悔も』


『誰にも届かなかった思いは、やがて形を持つ』


遊の目が止まる。


指先が紙の端を強く押さえていた。


ページをめくる音が少しだけ重くなる。


『炉は必ず意思を持つ』


『それは避けられない』


『人が未来を望む限り、その意思は必ず生まれる』


遊は眉を寄せる。


胸の鼓動が少し速くなる。


その続きを読む。


『だから私は、二つの意思を残す』


遊は息を呑んだ。


玄堂は何も言わない。


ただ、静かに背中を向けたまま立っている。


『一つは、人に寄り添う意思』


『一つは、人を導こうとする意思』


『どちらも人間の中にある』


『どちらか一つでは、人は人ではなくなる』


遊はゆっくりと目を閉じた。


CUYON。


そして炉。


昨夜交わらなかった二つの言葉が、頭の中で静かにつながっていく。


澪は知っていたのだ。


未来を。


いや。


未来そのものではない。


人間が、いつか必ずこの問いへたどり着くことを。


最後のページを開く。


そこには、短い一文だけが記されていた。


『答えは残せない』


『未来は、未来を生きる人たちに委ねる』


遊は長い間、その文字から目を離せなかった。


窓の外では、夕日がゆっくりと山の向こうへ沈んでいく。


研究所の長い影が静かに伸び、部屋の中を少しずつ夜が満たしていく。


玄堂は帽子を手に取り、戸口へ向かった。


その足を止めることなく、背を向けたまま小さく言う。


「ようやく、お前に渡すことができたな」


遊は顔を上げる。


玄堂は振り返らない。


「澪は、お前なら必ず自分の答えを見つけると言っていた」


静かな足音だけを残し、玄堂は部屋を後にした。


遊は机の上の手記へ、もう一度視線を落とす。


そこには答えは書かれていない。


残されていたのは、一つの問いだった。


その問いは、静かに遊の胸へ宿り、これから始まる未来を大きく動かそうとしていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。引き続き『器』の世界をお楽しみください。

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