第五十六章 それぞれの正しさ
午後の光が、研究所の長い廊下を斜めに照らしていた。
窓から差し込む柔らかな陽は、磨かれた木の床に細長い影を落としている。
研究員たちは行き交い、それぞれの持ち場へ向かっていた。
紙をめくる音。
遠くで誰かが器具を組み立てる金属音。
そのどれもが、いつもと変わらない。
それなのに遊の胸には、小さな石が沈んだような重さだけが残っていた。
昨日の出来事が頭から離れない。
炉が初めてCUYONの言葉を拒んだ。
それは数値では表せない変化だった。
遊は歩きながら、無意識に手帳を開く。
そこには昨夜書き留めた短い言葉。
『意思が変わり始めている』
その一文を指先でなぞり、静かに閉じた。
廊下の向こうから鷹宮が歩いてくる。
姿勢はいつも通り真っ直ぐだった。
歩幅も変わらない。
しかし遊には、その歩き方が少しだけ遠く感じられた。
「鷹宮」
声を掛けると、鷹宮は足を止めた。
「少し時間をくれ」
「構わないが」
二人は窓際へ移る。
外では庭師が低木の枝を整えていた。
刃が枝を払うたび、小さな葉が風へ舞っていく。
遊はその景色を見つめたまま口を開く。
「炉の様子、見たか?」
「見た」
「どう思った?」
鷹宮はすぐには答えなかった。
窓枠へ軽く手を添え、親指で木目を静かになぞる。
視線は庭の向こう。
しばらくして口を開いた。
「変化している」
「だが異常ではない」
遊は眉を寄せる。
「異常じゃねぇだと?」
「CUYONを拒絶したんだぞ!」
鷹宮は遊を見る。
その目には怒りも焦りもない。
ただ、事実だけを見つめる冷静さがあった。
「炉は学習している」
「より効率の良い方法を選び始めた」
「それだけだ」
遊は小さく首を振る。
「違う」
「効率じゃねぇ」
「人は数字だけじゃ測れねぇんだ」
その声は大きくなかった。
だからこそ重かった。
鷹宮は静かに息を吐く。
「遊」
「お前は一人を救おうとする」
「俺は百人を守る方法を考える」
「見ている景色が違う」
遊は苦く笑った。
「そういうことか」
「お前らしいな」
鷹宮は答えない。
代わりに視線を庭へ戻す。
遊もその視線を追った。
窓の外。
幼い子どもが父親の手を握って歩いている。
転びそうになり、父親が支える。
笑い声が聞こえてきそうな光景だ。
それを見ながら、鷹宮は静かに言った。
「守るべきものが増えた」
遊はその横顔を見る。
昔から知っている顔だった。
研究だけを語っていた頃と変わらない。
けれど、その瞳の奥には、研究だけではない何かが宿っていた。
「誰かが決断しなければならない」
「全員は救えない」
「ならば、より多くを守る選択をする」
遊は拳を握る。
「俺は」
「一人を切り捨てる未来なんて考えたくもねぇ」
「それで世界が救えたって」
「胸張って正しいことをやったって言えねぇからな」
二人の間へ風が吹き抜ける。
廊下の扉が小さく鳴った。
言葉は途切れた。
互いに相手を否定したいわけではない。
どちらも、本気で世界を守ろうとしている。
だからこそ、その距離は埋まらなかった。
◇
その頃。
研究所最奥の資料保管庫。
厚い木の扉を開けると、紙と木材が長い年月を重ねた匂いが静かに漂っていた。
玄堂は棚の前へ立つ。
並べられた木箱の中から、一つだけ古びた箱を取り出した。
箱の表面には、細い筆文字。
「澪」
玄堂は蓋へそっと手を置く。
しばらく目を閉じた。
まるで、遠い日の声を思い出すように。
「……ようやくか」
静かな独り言だった。
蓋を開く。
中には手記。
設計図。
玄堂は箱を抱え直し、柔らかく蓋を閉じた。
「お前は答えを残さなかった」
「選ばせるつもりだったんだな」
窓から差し込む夕日が箱を照らす。
長く伸びた影が床を静かに這っていく。
玄堂はゆっくりと歩き出した。
その足取りには迷いがなかった。
遊へ向かう廊下は、夕暮れの光に染まり始めていた。
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