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器 -UTSUWA- 零  作者: 猿吉


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第五十五章 交わらない意志

朝から降り続いた雨は、昼を過ぎても止む気配がなかった。


研究所の屋根を打つ雨粒が、一定の調子で音を刻んでいる。


窓硝子を伝う雫は、一本の線になってゆっくりと流れ落ち、外の景色をぼやけさせていた。


遊は制御室の隅で、一枚の設計図を広げていた。


何度も見返してきた炉の設計図。


紙の端は指先に馴染むほど擦り切れ、鉛筆で書き加えた細かな文字が幾重にも重なっている。


静かだった。


研究所の中は人の行き来があるにもかかわらず、遊の耳には雨音しか届いていないように思えた。


指先が一つの数式をなぞる。


そこで止まる。


「……違う」


誰へ向けるでもない小さな声だった。


設計通りなら、この変化は起きない。


数値は正常。


出力にも異常はない。


それでも、炉は少しずつ変わり始めている。


理屈では説明できない違和感だけが、胸の奥に沈殿していく。


背後から、小さな足音が聞こえた。


振り返るまでもない。


遊は苦笑する。


「また眠れなかったのか」


CUYONは遊の隣まで来ると、設計図には目もくれず窓の外を見つめた。


雨粒が石畳を濡らし、小さな水たまりを作っている。


黒い髪が静かに肩へ落ち、その横顔には、いつもの穏やかさがあった。


それでも今日は、どこか沈んで見えた。


「聞こえるんだ」


遊は顔を上げる。


「何が」


CUYONは答える前に目を閉じた。


雨音の向こうへ耳を澄ませるように。


「泣いてる人」


「怒ってる人」


「諦めようとしてる人」


ゆっくりと目を開く。


「前より、もっと」


遊は言葉を失った。


そんな機能は組み込んでいない。


感情を受け止め、浄化する。


それだけのはずだった。


なのに、目の前の少年は、まるで本当に人の心へ耳を傾けている。


「……無理すんな」


思わず出た言葉だった。


CUYONは首を横に振る。


「無理じゃない」


「放っておけないだけ」


その一言が、遊の胸へ静かに落ちた。


澪なら、きっと同じことを言った。


そんな気がした。


遊は視線を逸らし、照れ隠しのように頭をかく。


「ほんと、お前は似てきたな」


「誰に?」


「……さあな」


笑って誤魔化したが、自分でも答えは分かっていた。


研究室の窓から見える景色。


炉は変わらず低い駆動音を響かせている。


その音だけが、今日は少し冷たく聞こえた。


CUYONは立ち上がる。


何かに呼ばれるように、ゆっくりと炉へ歩き始めた。


遊は何も言わない。


止めようとも思わなかった。


黒い髪が揺れる。


小さな背中が炉の前で止まる。


CUYONはそっと炉の方へ手を伸ばした。


その瞬間だった。


研究室の空気が変わる。


低く響いていた駆動音が、一段深く沈む。


床を伝う振動が、足の裏へゆっくりと這い上がってくる。


遊の眉が動いた。


「……またか」


計器へ目を向ける。


異常なし。


数値は一つも変わらない。


それなのに、空気だけが張り詰めていく。


CUYONは炉へ手を伸ばしたまま、小さく呼びかける。


「聞こえる?」


返事はない。


静寂だけが流れる。


もう一度、優しく問いかける。


「悲しんでいる人がいる」


「一緒に受け止めよう」


長い沈黙。


やがて炉の奥から、重く響く声が返ってきた。


「不要だ」


短い一言。


その響きには、これまでにない硬さがあった。


CUYONの指先がわずかに震える。


「どうして」


「悲しみは消えない」


炉は淡々と答える。


「だから消す」


「迷いも」


「苦しみも」


「原因ごと排除すればいい」


CUYONはゆっくりと首を振る。


黒い前髪が頬へかかる。


「違う」


「悲しみは」


「誰かと分け合える」


「受け止めてもらえるだけで、人は前を向ける」


再び静寂が訪れる。


その静けさは、雨音さえ遠ざけてしまうほど深かった。


そして炉は、ゆっくりと告げる。


「非効率だ」


その一言に。


遊は初めて、自分の作った二つの存在が、互いに違う未来を見始めていることを悟るのだった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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