第五十四章 噛み合わない歯車
朝靄はまだ町の屋根を淡く包み込んでいた。
石畳には昨夜の雨が薄く残り、朝日を受けて小さな光を返している。軒先では商人たちが店を開く準備を始め、木箱を運ぶ音や戸板を外す乾いた音が静かな町へ少しずつ広がっていく。
人々は今日も変わらない一日を迎えようとしていた。
誰も、この日から少しずつ世界の歯車が狂い始めることなど知る由もなかった。
研究所へ向かう坂道を、遊はゆっくりと歩いていた。
肩には古びた鞄。
片手には湯気の立つ竹筒の茶。
歩幅は一定だったが、その視線だけが何度も空へ向く。
昨夜見た数値が、頭から離れなかった。
炉の出力。
器の同期率。
どちらも異常はない。
異常はないはずなのに、数字の奥に何か説明のできない違和感が残っている。
研究者として長く積み重ねてきた勘が、小さく胸で競輪を鳴らしている。
研究所の門をくぐると、いつもの喧騒が迎える。
運搬用の荷車が行き交い、研究員たちは紙束を抱えて慌ただしく廊下を歩く。
誰もが忙しそうだった。
遊は軽く手を挙げて挨拶を返しながら奥へ進む。
扉を開き中へ入る。
研究室には、静かな光が差し込んでいた。
研究室の窓からは炉が見える。
小柄な少年が座っている。
黒い髪を揺らしながら、膝を抱えるようにして炉を見つめていた。
CUYONだった。
遊は足音を立てないよう近づく。
少年はゆっくり振り返った。
「おはよう」
穏やかな笑顔。
その笑顔を見て、遊も自然と頬を緩めた。
「おう、おはよう」
「今日も早ぇな」
CUYONは小さく頷く。
「眠れなかった」
遊は思わず笑った。
「お前が眠るなんて話、初めて聞いたな」
しかし、その笑みはすぐ消えた。
CUYONの目の下には、人間なら寝不足のようにも見える淡い陰がある。
もちろん疲労ではない。
そんな機能は備わっていない。
それでも遊には、そう見えてしまった。
「何かあったのか」
問い掛ける声も自然と柔らかくなる。
CUYONは炉へ視線を戻した。
「たくさん聞こえる」
「届かなかった声」
「悲しい声」
「苦しい声」
その一つ一つを確かめるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
遊は隣へ腰を下ろした。
炉の低い駆動音が床を震わせている。
耳を澄ませば規則正しい鼓動にも聞こえた。
「全部聞こうとしてんのか」
CUYONは頷く。
「聞こえるから」
「放っておけない」
遊は小さく息を吐いた。
「お前なぁ。みんなに寄り添おうなんて思うんじゃねぇぞ」
その言葉に、CUYONは少しだけ嬉しそうに笑う。
だが、その笑顔はどこか儚かった。
遊は少年の横顔を見つめる。
研究室へ初めて現れた頃は、ただ命令を理解し、応答するだけの存在だった。
今は違う。
笑う。
迷う。
考える。
そして、人の悲しみに胸を痛めているように見える。
「……変わったな」
遊は独り言のように漏らした。
CUYONは首を傾げる。
「ぼく?」
「ああ」
「なんか、人間くさくなってきた」
その言葉に、CUYONは困ったように微笑んだ。
「それは、いいこと?」
遊は答えに詰まる。
指先で木の床を軽く叩きながら考える。
人間らしい。
その言葉が、本当に良いことなのか。
人は迷う。
傷つく。
悩む。
だからこそ優しくもなれる。
「……分かんねぇな」
遊は苦笑した。
「でも、お前がそうなった理由なら、少し分かる気がする」
CUYONは遊の言葉を静かに受け止めた。
研究室に朝日が差し込む。
光は炉を照らし、CUYONの髪を柔らかく染めていた。
その穏やかな時間を破るように、不意に炉の駆動音が一瞬だけ低く唸る。
ゴゥン……
ほんの一拍。
鼓動が乱れたような音。
遊の表情が変わる。
「……今のは」
すぐに計器へ目を向ける。
数値は正常。
出力も変わらない。
同期率にも異常はない。
だが、胸の奥の違和感だけが静かに大きくなっていく。
CUYONは炉を見つめたまま、小さく呟いた。
「怒ってる」
遊はゆっくりと顔を上げる。
「……誰が」
CUYONは答えない。
ただ、炉を見つめ続けていた。
研究室を吹き抜けた風が、机の上の設計図を一枚だけめくる。
紙の擦れる音だけが、静かな部屋に長く残っていた。
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