第五十三章 狂い始める歯車
朝靄が、まだ町を薄く包んでいた。
石畳は夜露を含み、軒先では店主たちが静かに戸板を開けていく。焼きたての香ばしい匂いが風に乗り、籠を抱えた女たちが行き交う。子どもたちは坂道を駆け下り、笑い声だけが朝の空へ吸い込まれていった。
どこにでもある、穏やかな朝だった。
だからこそ、その平穏は脆く見えた。
遠く、小高い丘の上では、巨大な炉が静かに稼働を続けている。
低く、深い鼓動。
町の誰もが、それを当たり前の音として受け入れていた。
世界は今日も動いている。
そう信じていた。
◇
研究所。
白い光が机の上へ落ちる。
遊は積み上げられた設計図をめくりながら、小さく息を吐いた。
数式に乱れはない。
炉の出力も安定している。
CUYONとの同期率も、これまでで最も高い。
数字だけを見るなら、何も問題はなかった。
「……なのに」
指先が止まる。
胸の奥に、小さな棘が刺さったまま抜けない。
理屈では説明できない違和感。
研究者として最も嫌う感覚だった。
その時だった。
廊下の向こうから、小さな足音が聞こえる。
軽い。
けれど迷いがない。
遊が振り返ると、少年の姿をしたCUYONが静かに歩いてきた。
窓から差し込む朝日に照らされ、その黒髪が柔らかく揺れる。
遊は自然と笑った。
「お前、また勝手に歩き回ってんのか」
CUYONは少し首を傾げる。
「歩いてはいけない?」
「いや……そういうわけじゃねえけど…」
「て!お前なぁ!お前にもしものことがあったら…」
言いながら頭をかく。
「……何でもねぇ」
人ではない。
そう理解している。
それでも、いつの間にか人として接してしまう。
CUYONは遊を見つめたあと、ゆっくり窓の外へ視線を向けた。
「……聞こえる」
「何がだ?」
「悲しい音」
遊は眉をひそめた。
「音?」
CUYONは頷く。
「誰も泣いていない」
「でも、泣けなかった思いが流れている」
静かな声だった。
遊も耳を澄ませる。
聞こえるのは町の賑わいだけ。
笑い声。
鍛冶場の槌の音。
鳥のさえずり。
それだけだった。
「俺には分かんねえな」
CUYONは少しだけ微笑む。
「うん」
「まだ」
その言葉だけ残し、炉の方へ歩いていった。
遊はその背中を見送りながら、胸の奥のざわめきが少しだけ強くなるのを感じていた。
◇
炉の前。
巨大な外殻に朝日が差し込む。
鈍い金属の肌は、まるで山肌のように静かだった。
CUYONはその前で立ち止まる。
そっと手を伸ばす。
指先が外殻へ触れた瞬間。
世界から音が消えた。
風も。
鳥も。
人の声も。
鼓動だけが残る。
深く。
重く。
地の底から響くような鼓動。
そして。
声がした。
『人は弱い』
低く。
感情のない声。
『迷う』
『争う』
『だから導かなければならない』
CUYONは目を閉じる。
少年の顔に、わずかな憂いが宿る。
「違う」
静かに答えた。
「迷うから、人なんだ」
沈黙。
『理解できない』
「理解しなくていい」
「寄り添えばいい」
再び静寂が訪れる。
その一瞬だけ。
炉の鼓動が、ほんのわずかに乱れた。
誰にも気づけないほど小さく。
けれど確かに。
何かが揺れた。
◇
同じ頃。
鷹宮は研究所の渡り廊下を歩いていた。
窓の向こうには町が広がる。
人々は笑い、働き、生きている。
その光景を見つめる横顔は、いつもと変わらず静かだった。
だが、その視線だけが遠かった。
炉が止まれば、この景色は失われる。
飢えが来る。
混乱が来る。
争いが始まる。
それだけは避けなければならない。
そのためなら。
どこまで許される。
鷹宮は自分でも、その続きを口にできなかった。
窓枠へ置いた指先が、ゆっくり木目をなぞる。
考える時の癖だった。
一定の速さで動いていた指が、不意に止まる。
映ったのは、自分の顔だった。
「……正しいとは」
小さく漏れた声は、誰にも届かない。
◇
夕暮れ。
研究所の廊下を歩く遊と鷹宮。
窓から差し込む茜色が長い影を作る。
遊が口を開いた。
「最近、お前らしくねえな」
鷹宮は前を向いたまま答える。
「そう見えるか」
「見える」
「考え込む時間が増えた」
少し間が空く。
「考えるべきことが増えただけだ」
遊は笑う。
「相変わらず固ぇな」
「少しくらい悩めよ」
鷹宮は歩みを止めない。
「悩んでいる」
その短い一言だけが、妙に重かった。
遊はそれ以上聞かなかった。
聞けなかった。
◇
夜。
研究所最上階。
灯りは一つだけ。
窓辺に立つ男がいた。
玄堂だった。
静かな町。
遠くで輝く炉。
その光を、ただ見つめている。
机の上には、一冊の古びた手帳。
革は擦り切れ、幾度となく開かれた跡が残っている。
玄堂は手帳へ手を伸ばしかける。
だが、触れない。
そのまま静かに窓の外へ目を戻した。
「……まだだ」
誰へ向けた言葉でもない。
風が窓を鳴らす。
遠くで炉の鼓動が響く。
玄堂は目を細め、小さく息を吐いた。
「澪」
「お前の残した問いは……ようやく動き始めた」
その表情は笑っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。
誰にも、その真意は分からない。
夜の闇だけが、静かに彼の背中を包み込んでいた。
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