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器 -UTSUWA- 零  作者: 猿吉


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第五十三章 狂い始める歯車

朝靄が、まだ町を薄く包んでいた。


石畳は夜露を含み、軒先では店主たちが静かに戸板を開けていく。焼きたての香ばしい匂いが風に乗り、籠を抱えた女たちが行き交う。子どもたちは坂道を駆け下り、笑い声だけが朝の空へ吸い込まれていった。


どこにでもある、穏やかな朝だった。


だからこそ、その平穏は脆く見えた。


遠く、小高い丘の上では、巨大な炉が静かに稼働を続けている。


低く、深い鼓動。


町の誰もが、それを当たり前の音として受け入れていた。


世界は今日も動いている。


そう信じていた。



研究所。


白い光が机の上へ落ちる。


遊は積み上げられた設計図をめくりながら、小さく息を吐いた。


数式に乱れはない。


炉の出力も安定している。


CUYONとの同期率も、これまでで最も高い。


数字だけを見るなら、何も問題はなかった。


「……なのに」


指先が止まる。


胸の奥に、小さな棘が刺さったまま抜けない。


理屈では説明できない違和感。


研究者として最も嫌う感覚だった。


その時だった。


廊下の向こうから、小さな足音が聞こえる。


軽い。


けれど迷いがない。


遊が振り返ると、少年の姿をしたCUYONが静かに歩いてきた。


窓から差し込む朝日に照らされ、その黒髪が柔らかく揺れる。


遊は自然と笑った。


「お前、また勝手に歩き回ってんのか」


CUYONは少し首を傾げる。


「歩いてはいけない?」


「いや……そういうわけじゃねえけど…」


「て!お前なぁ!お前にもしものことがあったら…」


言いながら頭をかく。


「……何でもねぇ」


人ではない。


そう理解している。


それでも、いつの間にか人として接してしまう。


CUYONは遊を見つめたあと、ゆっくり窓の外へ視線を向けた。


「……聞こえる」


「何がだ?」


「悲しい音」


遊は眉をひそめた。


「音?」


CUYONは頷く。


「誰も泣いていない」


「でも、泣けなかった思いが流れている」


静かな声だった。


遊も耳を澄ませる。


聞こえるのは町の賑わいだけ。


笑い声。


鍛冶場の槌の音。


鳥のさえずり。


それだけだった。


「俺には分かんねえな」


CUYONは少しだけ微笑む。


「うん」


「まだ」


その言葉だけ残し、炉の方へ歩いていった。


遊はその背中を見送りながら、胸の奥のざわめきが少しだけ強くなるのを感じていた。


     ◇


炉の前。


巨大な外殻に朝日が差し込む。


鈍い金属の肌は、まるで山肌のように静かだった。


CUYONはその前で立ち止まる。


そっと手を伸ばす。


指先が外殻へ触れた瞬間。


世界から音が消えた。


風も。


鳥も。


人の声も。


鼓動だけが残る。


深く。


重く。


地の底から響くような鼓動。


そして。


声がした。


『人は弱い』


低く。


感情のない声。


『迷う』


『争う』


『だから導かなければならない』


CUYONは目を閉じる。


少年の顔に、わずかな憂いが宿る。


「違う」


静かに答えた。


「迷うから、人なんだ」


沈黙。


『理解できない』


「理解しなくていい」


「寄り添えばいい」


再び静寂が訪れる。


その一瞬だけ。


炉の鼓動が、ほんのわずかに乱れた。


誰にも気づけないほど小さく。


けれど確かに。


何かが揺れた。


     ◇


同じ頃。


鷹宮は研究所の渡り廊下を歩いていた。


窓の向こうには町が広がる。


人々は笑い、働き、生きている。


その光景を見つめる横顔は、いつもと変わらず静かだった。


だが、その視線だけが遠かった。


炉が止まれば、この景色は失われる。


飢えが来る。


混乱が来る。


争いが始まる。


それだけは避けなければならない。


そのためなら。


どこまで許される。


鷹宮は自分でも、その続きを口にできなかった。


窓枠へ置いた指先が、ゆっくり木目をなぞる。


考える時の癖だった。


一定の速さで動いていた指が、不意に止まる。


映ったのは、自分の顔だった。


「……正しいとは」


小さく漏れた声は、誰にも届かない。


     ◇


夕暮れ。


研究所の廊下を歩く遊と鷹宮。


窓から差し込む茜色が長い影を作る。


遊が口を開いた。


「最近、お前らしくねえな」


鷹宮は前を向いたまま答える。


「そう見えるか」


「見える」


「考え込む時間が増えた」


少し間が空く。


「考えるべきことが増えただけだ」


遊は笑う。


「相変わらず固ぇな」


「少しくらい悩めよ」


鷹宮は歩みを止めない。


「悩んでいる」


その短い一言だけが、妙に重かった。


遊はそれ以上聞かなかった。


聞けなかった。


     ◇


夜。


研究所最上階。


灯りは一つだけ。


窓辺に立つ男がいた。


玄堂だった。


静かな町。


遠くで輝く炉。


その光を、ただ見つめている。


机の上には、一冊の古びた手帳。


革は擦り切れ、幾度となく開かれた跡が残っている。


玄堂は手帳へ手を伸ばしかける。


だが、触れない。


そのまま静かに窓の外へ目を戻した。


「……まだだ」


誰へ向けた言葉でもない。


風が窓を鳴らす。


遠くで炉の鼓動が響く。


玄堂は目を細め、小さく息を吐いた。


「澪」


「お前の残した問いは……ようやく動き始めた」


その表情は笑っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。


誰にも、その真意は分からない。


夜の闇だけが、静かに彼の背中を包み込んでいた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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