表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
器 -UTSUWA- 零  作者: 猿吉


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
52/54

第五十ニ章 それぞれの正しさ

朝靄はまだ町の屋根の上に薄く残っていた。


石畳には昨夜の雨がわずかに残り、軒先から落ちる雫が一定の間隔で地面を打つ。


市場では店を開く者たちが戸板を外し、威勢のいい声よりも先に木の擦れる音が町へ広がっていく。


炭を起こす香り。


焼き立てのパンの匂い。


野菜を並べる老婆の手。


荷車を動かす若者の掛け声。


子どもたちは細い路地を駆け抜け、笑い声だけを残して消えていく。


誰もが昨日と同じ朝を迎えたと思っている。


だが鷹宮だけは違った。


町の喧騒を見つめるその目は、人ではなく、その先にある未来を見ていた。



研究所は町外れの丘の上に建っている。


窓を開けると、朝の風が静かに書類を揺らした。


鷹宮は机の上に広げられた澪の研究記録へ視線を落とす。


何度読んだか分からない。


それでも今日もまた同じ頁を開いていた。


指先が紙の端を静かになぞる。


癖だった。


考え込むほど、その動きはゆっくりになる。


『人は選ぶ』


その一文だけを見つめたまま、指先が止まる。


部屋は静かだった。


聞こえるのは紙をめくる音と、窓から入り込む風だけ。


鷹宮は小さく息を吐いた。


「選ばせる、か……」


独り言だった。


澪は未来を変えようとは書いていない。


未来を託したのだ。


その違いが、今になって胸へ重く落ちてくる。



窓の外では、町の人々が変わらぬ朝を生きている。


笑う者がいる。


口論をする者もいる。


荷を運び、商いをし、家族のもとへ帰る。


誰もが自分の正しさを疑わずに生きている。


鷹宮はその景色を見つめながら、ゆっくりと腕を組んだ。


正しい。


その言葉ほど曖昧なものはない。


誰かを守るための正しさ。


秩序を守るための正しさ。


未来を守るための正しさ。


そのどれもが、時には誰かを傷つける。


澪は、それを知っていた。


だから一つの答えを残さなかった。



机の端には、遊へ渡した研究資料の控えが置かれていた。


その封を閉じた日のことを思い出す。


あの時、自分は迷っていた。


渡すべきか。


まだ早いのではないか。


知らなければ幸せでいられる未来もあったのではないか。


その迷いは今も消えていない。


鷹宮は資料へ手を伸ばしかける。


だが、その手は途中で止まった。


握り締めるでもなく、開くでもない。


宙に浮いたまま、小さく震えている。


「……俺は迷っているのか?」


誰に聞かせるでもない言葉だった。


その声は静かな部屋へ吸い込まれていく。



遊は、人を信じようとしている。


ひよりは、人に寄り添おうとしている。


自分は何を選ぶ。


秩序か。


自由か。


管理か。


共存か。


その答えを持っている者は、この世にいない。


だからこそ澪は、人類へ問いを残した。


鷹宮は静かに研究記録を閉じる。


乾いた音が部屋へ響いた。


窓から吹き込んだ風が、机の上の一枚の紙を揺らす。


そこには、澪の最後の走り書きが残されていた。


『正しさは、人が決めるものではない』


『人が、生き続けた先で証明するもの』


鷹宮は目を閉じる。


その言葉を胸の中で繰り返した。


外では、町がいつもの一日を始めている。


誰もまだ知らない。


静かに動き始めた未来が、もう止まらないことを。


そして、その未来を選ぶ時が、確実に近づいていることを。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ