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器 -UTSUWA- 零  作者: 猿吉


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第五十ニ章 それぞれの正しさ

朝靄はまだ町の屋根の上に薄く残っていた。


石畳には昨夜の雨がわずかに残り、軒先から落ちる雫が一定の間隔で地面を打つ。


市場では店を開く者たちが戸板を外し、威勢のいい声よりも先に木の擦れる音が町へ広がっていく。


炭を起こす香り。


焼き立てのパンの匂い。


野菜を並べる老婆の手。


荷車を動かす若者の掛け声。


子どもたちは細い路地を駆け抜け、笑い声だけを残して消えていく。


誰もが昨日と同じ朝を迎えたと思っている。


だが鷹宮だけは違った。


町の喧騒を見つめるその目は、人ではなく、その先にある未来を見ていた。


◇


研究所は町外れの丘の上に建っている。


窓を開けると、朝の風が静かに書類を揺らした。


鷹宮は机の上に広げられた澪の研究記録へ視線を落とす。


何度読んだか分からない。


それでも今日もまた同じ頁を開いていた。


指先が紙の端を静かになぞる。


癖だった。


考え込むほど、その動きはゆっくりになる。


『人は選ぶ』


その一文だけを見つめたまま、指先が止まる。


部屋は静かだった。


聞こえるのは紙をめくる音と、窓から入り込む風だけ。


鷹宮は小さく息を吐いた。


「選ばせる、か……」


独り言だった。


澪は未来を変えようとは書いていない。


未来を託したのだ。


その違いが、今になって胸へ重く落ちてくる。


◇


窓の外では、町の人々が変わらぬ朝を生きている。


笑う者がいる。


口論をする者もいる。


荷を運び、商いをし、家族のもとへ帰る。


誰もが自分の正しさを疑わずに生きている。


鷹宮はその景色を見つめながら、ゆっくりと腕を組んだ。


正しい。


その言葉ほど曖昧なものはない。


誰かを守るための正しさ。


秩序を守るための正しさ。


未来を守るための正しさ。


そのどれもが、時には誰かを傷つける。


澪は、それを知っていた。


だから一つの答えを残さなかった。


◇


机の端には、遊へ渡した研究資料の控えが置かれていた。


その封を閉じた日のことを思い出す。


あの時、自分は迷っていた。


渡すべきか。


まだ早いのではないか。


知らなければ幸せでいられる未来もあったのではないか。


その迷いは今も消えていない。


鷹宮は資料へ手を伸ばしかける。


だが、その手は途中で止まった。


握り締めるでもなく、開くでもない。


宙に浮いたまま、小さく震えている。


「……俺は迷っているのか?」


誰に聞かせるでもない言葉だった。


その声は静かな部屋へ吸い込まれていく。


◇


遊は、人を信じようとしている。


ひよりは、人に寄り添おうとしている。


自分は何を選ぶ。


秩序か。


自由か。


管理か。


共存か。


その答えを持っている者は、この世にいない。


だからこそ澪は、人類へ問いを残した。


鷹宮は静かに研究記録を閉じる。


乾いた音が部屋へ響いた。


窓から吹き込んだ風が、机の上の一枚の紙を揺らす。


そこには、澪の最後の走り書きが残されていた。


『正しさは、人が決めるものではない』


『人が、生き続けた先で証明するもの』


鷹宮は目を閉じる。


その言葉を胸の中で繰り返した。


外では、町がいつもの一日を始めている。


誰もまだ知らない。


静かに動き始めた未来が、もう止まらないことを。


そして、その未来を選ぶ時が、確実に近づいていることを。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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