第五十一章 同じ朝
朝の光は、薄いレースのカーテンを透かし、静かな部屋へやわらかく差し込んでいた。
窓の外では、小鳥が枝を渡るたび、小さな葉が揺れる。
昨夜降った雨の名残が土の匂いとなって漂い、畑では朝露をまとった野菜が静かに陽を待っていた。
鍋の蓋が小さく鳴る。
味噌汁の湯気がゆっくりと立ち上り、炊き立ての米の甘い香りが部屋いっぱいに広がっていく。
遊は湯飲みを片手に、窓辺へ目を向けていた。
こんな朝が来るとは、少し前まで想像もしていなかった。
研究室で寝泊まりし、時計も見ずに設計図と睨み合い、食事すら忘れていた日々。
世界を変えようとしていた頃より、今の方が世界はずっと広く見える。
廊下の向こうから、ぱたぱたと足音が近づいてきた。
「……おはよぉ」
眠たそうな声。
振り返ると、ひよりが髪をぼさぼさのまま立っていた。
片方だけ跳ねた前髪。
寝癖は後ろまで豪快に広がっている。
遊はしばらく見つめたあと、小さく吹き出した。
「……おい」
「ん?」
「頭、爆発してんぞ」
ひよりは眠そうなまま髪へ手をやる。
「あれ?」
近くのガラスへ映る自分を見る。
数秒。
「……うわ」
遊は肩を震わせた。
「ははっ」
「笑った!」
「笑うだろ、そりゃ」
ひよりは頬を膨らませる。
「えー」
「可愛くなくない?」
遊は一瞬考える。
「……どっちなんだよ」
「だからぁ」
「可愛いって言ってほしいじゃん」
遊は頭を掻きながら苦笑した。
「めんどくせぇなぁ」
「それ褒めてないし」
「褒めてる褒めてる」
「絶対違う」
笑い声が部屋いっぱいに広がる。
その声につられるように、窓の外で鳥が羽ばたいた。
ひよりが台所へ向かおうとした、その時だった。
遊はすれ違いざま、自然にその腰へ腕を回した。
ひよりの身体がふわりと止まる。
「……え?」
驚いたように遊を見上げる。
遊は何も言わない。
ただ、そのまま少しだけ引き寄せた。
ひよりは照れたように目を細める。
抵抗はしない。
むしろ安心したように肩を預けた。
「……朝から?」
小さく笑う。
遊も笑った。
「いけねぇか?」
「べつに」
「なくない?」
「意味分かんねぇよ、それ」
「いいの」
「こういうのは雰囲気だから」
遊は肩をすくめた。
「そういうもんか」
「そういうもん」
二人は顔を見合わせる。
どちらともなく笑う。
派手な言葉は何一つない。
けれど、その静かな時間には、研究では埋められなかった温もりが確かに流れていた。
窓から吹き込んだ朝風がカーテンを揺らす。
その風が、二人の間をゆっくりと通り抜けていった。
◇
朝食を終えると、遊は庭へ出た。
長靴の底が湿った土を踏みしめるたび、小さな音が返ってくる。
しゃがみ込み、畝をゆっくり眺める。
昨日より少しだけ大きくなった葉。
まだ頼りない茎。
それでも確かに生きている。
指先で土をそっと崩す。
湿り気を確かめるように掌へ乗せる。
「……順調だな」
独り言のようにつぶやく。
その声へ返事をするように、後ろからひよりが歩いてきた。
マグカップを両手で包みながら、遊の隣へしゃがみ込む。
「この前より大きくなってる」
「見えねぇところで育ってたんだろうな」
遊は葉へ触れないよう気を付けながら土を寄せる。
「人も同じかもしれねぇな」
ひよりは遊の横顔を見る。
風が前髪を揺らす。
遊の目は畑を見ている。
けれど、その視線のもっと先を見ているようにも見えた。
「……また考えてる?」
遊は苦笑する。
「顔に出てたか」
「出てる」
「眉間」
「今日も寄ってる」
遊は思わず眉間へ指を当てた。
「そんなか?」
「そんな」
ひよりはくすっと笑う。
「遊って分かりやすいよね」
遊は照れ隠しに土をならした。
「昔はもっと隠せたんだけどなぁ」
「ううん」
ひよりはゆっくり首を振る。
「隠さなくなっただけじゃない?」
その言葉に、遊の手が止まる。
風だけが静かに畑を渡っていった。
◇
窓の外では、夕暮れがゆっくりと街を橙色へ染め始めていた。
畑から戻った二人は、玄関先で土の付いた靴を並べる。
遊は袖をまくった腕を見下ろし、小さく笑った。
「土仕事ってのは、案外疲れるもんだな」
ひよりは笑いながら首を傾げる。
「遊って研究ばっかしてたのに、最近は畑の人って感じじゃね」
「悪くねぇだろ」
「うん、悪くない」
ひよりはそう言って笑う。
その笑顔を見るだけで、胸の奥に張っていた糸が少し緩む。
遊は無意識に息を吐いた。
こんな時間が来るなんて。
昔の自分なら想像もしなかった。
◇
台所では湯気が立ち上る。
鍋の中で静かに煮える野菜の香りが部屋いっぱいに広がっていた。
ひよりは味見をすると、少し眉を寄せる。
「んー」
「ちょっと薄いかも」
遊が後ろから鍋を覗き込む。
「どれ」
木べらを受け取り、一口だけ口に運ぶ。
「……うん」
「薄いな」
「でしょ」
「でも嫌いじゃねぇ」
「え?」
「このくらいの味」
ひよりが吹き出した。
「それ、褒めてなくない?」
「いや」
「ちゃんと褒めてる」
「優しい味だ」
そう言うと、遊は棚から塩を少しだけ取り、指先で鍋へ落とした。
「これくらいで十分だろうな」
「ほんと?」
「ん」
もう一度味を見る。
「今度はちょうどいい」
ひよりも続いて口に運び、目を丸くした。
「ほんとだ」
「なんで?」
遊は肩をすくめる。
「勘だ」
「絶対うそ」
二人の笑い声が、小さな部屋へ静かに広がった。
◇
食卓。
向かい合って座る二人の間には、温かな湯気が揺れている。
窓の外では風が木々を鳴らし、葉が擦れる音だけがゆっくりと流れていた。
遊は箸を置く。
ふと視線を上げると、ひよりも同じようにこちらを見ていた。
目が合う。
どちらからともなく笑う。
「なんだよ」
「いや」
「見てただけ」
「そんな見られると食いづれぇな」
「じゃあ見ない」
そう言いながらも、ひよりは少しも視線を逸らさない。
遊は照れ隠しのように頭をかいた。
「まったく」
「困るやつだ」
「えへへ」
その笑い方が妙に子どもっぽくて、遊はまた笑ってしまう。
◇
食後。
皿を洗う水音だけが静かに響く。
ひよりが袖をまくって皿を流し、遊が横で拭いていく。
息はぴったりだった。
何も言わなくても次に何をすればいいか分かる。
そんな時間が自然になっていた。
「遊」
「ん?」
「最近さ」
「前より笑うようになったよね」
手が止まる。
布巾を持ったまま、小さく息を吐く。
「そうか?」
「うん」
「前はさ」
ひよりは皿を棚へ戻しながら続ける。
「笑ってても、どこか苦しそうだった」
「今は違う」
「ちゃんと笑ってる」
遊はしばらく黙っていた。
窓から入る風が、カーテンを静かに揺らす。
「……そうだな」
「お前のおかげかもしれねぇ」
ひよりは照れたように笑う。
「急にそんなこと言う?」
「思ったから言っただけだ」
「ずるい」
「何がだよ」
「そういうの急だから」
遊は困ったように笑う。
「わりぃ」
「慣れてねぇんだ」
その言葉に、ひよりは一歩だけ近づいた。
遊の胸に額を預ける。
静かな温もり。
鼓動が重なる。
遊は少し驚いたように目を瞬かせたあと、そっとひよりの腰へ手を回した。
細く柔らかな体が腕の中へ収まる。
ひよりは力を抜き、そのまま身を委ねた。
外では風が吹き抜ける。
世界は相変わらず少しずつ軋み始めている。
利権。
争い。
炉。
影。
未来には、数え切れないほどの問題が待っている。
それでも今だけは。
この小さな部屋だけは。
誰にも壊されたくないと思った。
遊はひよりの髪をそっと撫でる。
指先を滑る柔らかな感触に、自然と力が抜けていく。
「ひより」
「ん?」
「ありがとな」
ひよりは顔を上げる。
少し潤んだ瞳で笑った。
「そんなこと言われたら」
「泣くじゃん」
遊も笑う。
「泣いてもいいだろ」
「俺がいる」
その一言に、ひよりは小さく頷いた。
二人は何も言わない。
言葉がなくても伝わる時間だった。
その穏やかな空気の中で、机の上に置かれた澪の研究記録だけが、静かに夕陽を受けていた。
閉じられた表紙の向こうには、まだ誰も知らない問いが眠っている。
そしてその問いは、ゆっくりと、確実に未来へ向かって二人を導き始めていた。
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