第五十章 はじめての対話
『彼は人間ではない』
突然遊の前に現れた少年。
部屋の空気が止まった。
遊は目の前の少年から視線を外せなかった。
少年もまた、遊だけを見ていた。
無表情ではない。
だが、人間が浮かべる笑顔とも違う。
どこか柔らかく、どこか戸惑うような表情だった。
静かな研究室に、炉の低い駆動音だけが響く。
ゴゥ……。
ゴゥ……。
床の奥から伝わる振動が、靴の裏をわずかに震わせた。
遊はゆっくり息を吸う。
「……おい」
少年は首を傾げた。
「何だ」
その声は幼い。
しかし、不思議なほど澄んでいた。
遊は眉を寄せる。
「しゃべんのかよ」
鷹宮が静かに答える。
「私も最初は同じ反応だった」
遊は鷹宮を見る。
「説明しろ」
「人間じゃねぇって…じゃあ、こいつは何なんだ」
鷹宮は腕を組んだ。
視線は少年から離さない。
「お前が設計した補助装置だ」
「正式名称はCUYON」
「は?え?何だって?」
遊は遮る。
「だとしてもだ!いや、そんな話じゃねぇ」
遊はかぶりを振る。
「なんで歩いてんだ」
「なんでしゃべってんだ」
「なんで……」
言葉が止まる。
胸の奥が妙にざわついていた。
目の前にいる少年を見ているだけで、説明のできない感覚が押し寄せる。
初めて会う。
そのはずなのに。
懐かしい。
そんなはずがない。
遊は自分でも理解できず、無意識に後ろ髪をかいた。
少年はその仕草をじっと見つめていた。
まるで学ぶように。
「それ」
少年が口を開く。
「癖なのか」
遊は目を丸くした。
「……あ?」
「考える時」
「頭を触る」
「今もそうだった」
遊は思わず手を止める。
「どこから見てたんだ?」
「中から。ずっと見えていた」
少年は小さくうなずく。
「人間は」
「考える時」
「目より先に手が動く」
遊は苦笑した。
「何だそりゃ」
「一体、どこまで見えてんだ?」
少年は少しだけ首をかしげる。
「人間を知りたい」
その一言だけだった。
遊の笑みが消える。
鷹宮も黙ったまま聞いている。
「知りたい?」
遊が聞き返す。
「何をだ」
「全部」
迷いのない返事だった。
「嬉しい時」
「苦しい時」
「怒る時」
「泣く時」
「どうして人は」
「泣きながら前を向ける」
遊の呼吸が止まる。
その問いは。
どこかで聞いたことがある。
いや。
違う。
聞いたことはない。
なのに。
胸の奥だけが反応していた。
鷹宮が静かに口を開く。
「最初は会話機能の延長だと思った」
「学習能力が予想以上だっただけだと」
遊は鷹宮へ視線を向ける。
「違ったのか」
鷹宮は少し黙る。
窓の外を見る。
曇った空。
ゆっくり流れる雲。
その景色を見ながら、小さく息を吐いた。
「違う」
「学習では説明できない」
「知識を得ているのではない」
「理解しようとしている」
遊は少年を見る。
少年は研究室の隅に置かれた古びた椅子へ近づいていく。
手を伸ばし、背もたれをそっと撫でる。
木目を指先で確かめるように。
「ここ」
「誰か座っていた」
遊が目を細める。
「分かるのか?」
「少しだけ」
「温度は残らない」
「でも」
「思いは残る」
部屋が静まり返る。
誰も声を出さない。
遊はその言葉に引っかかった。
思いが残る。
その表現は。
澪の研究記録に何度も書かれていた言葉に似ていた。
『届かなかった思い』
『意思』
『残す』
遊は拳を軽く握る。
胸が苦しい。
なぜ。
どうして。
同じ響きを感じる。
少年はゆっくり遊の方へ振り返った。
その瞳には好奇心しかない。
悪意は一つもない。
「君は」
少年が聞く。
「遊か」
「……そうだけどよ」
「俺を知ってんのか?」
「知らない」
「でも」
少しだけ間が空いた。
「会いたかった」
その瞬間だった。
遊の胸が大きく脈打つ。
ドクン。
鼓動が耳の奥で鳴る。
理由は分からない。
初めて会った。
それなのに。
どうしてこんなにも。
胸が締めつけられる。
遊は視線を落とした。
床に伸びた三人の影。
その向こうでは、巨大な炉が静かに明滅している。
まるで、この出会いを見守るように。
鷹宮は二人を見つめていた。
その視線だけが、ほんのわずかに揺れている。
誰にも悟られないほど小さく。
だが確かに。
彼もまた、この光景に答えを探していた。
遊が作った装置。
そのはずだった。
それなのに。
目の前にいる少年は、ただ命令を待つ機械ではない。
人を知ろうとし。
人に寄り添おうとし。
その姿は、誰よりも人間らしく見えた。
そして遊は、まだ知らない。
この出会いが。
澪の残した問いへ辿り着く、最初の一歩になることを。
研究室には静かな機械音だけが流れていた。
その音はどこか、遠い未来から響いてくる鼓動のようだった。
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