第四十九章 驚くな
研究所の廊下は、朝だというのに静かだった。
窓から差し込む淡い光が、磨かれた床に細長い影を落としている。遠くで換気装置の低い駆動音が途切れることなく響き、その音だけが建物に命が残っていることを知らせていた。
遊は資料を抱えたまま廊下を歩く。
昨夜、ひよりと読み返した澪の研究記録が、まだ頭から離れなかった。
『未来を選ぶのは、未来を生きる人たちであってほしい』
何度読み返しても、その一文だけは胸の奥へ沈んでいく。
澪は何を見ていた。
何を知り。
何を残そうとした。
答えは、まだ遠かった。
角を曲がろうとしたその時だった。
「遊」
低く落ち着いた声が背中に届く。
振り返ると、鷹宮が立っていた。
白衣の胸元を軽く押さえたまま、真っすぐこちらを見ている。
その表情はいつもと変わらない。
だが。
遊は気づいた。
鷹宮の右手が、資料の端をわずかに強く握っている。
紙が小さく音を立てた。
普段なら、そんな握り方はしない男だった。
「……どうした」
遊が尋ねると、鷹宮は一度だけ視線を落とした。
それから短く言う。
「来い」
「今か」
「ああ」
「見せたいものがある」
遊は首を傾げた。
「そんな改まる話かよ」
鷹宮は答えない。
踵を返し、そのまま歩き始める。
遊も無言であとに続いた。
◇
研究所の奥へ進むにつれ、人の気配は少なくなっていく。
照明も必要最低限しか点いていない。
壁際に並ぶ機器のランプだけが、小さく点滅を繰り返していた。
二人の足音だけが長い通路に反響する。
鷹宮は歩く速度を変えない。
だが、右手はずっと資料を持ったままだった。
親指が紙の縁を何度もなぞる。
離れそうになっては戻る。
その繰り返し。
遊は横顔を見ながら思う。
(迷ってやがる)
鷹宮は迷う姿を見せない男だ。
だからこそ、そのわずかな仕草が、かえって大きく見えた。
「鷹宮」
「何だ」
「お前でも迷うこと、あんだな」
歩みがほんの少しだけ遅くなる。
だが止まらない。
「……迷っているわけじゃない」
「じゃあ何だ」
「判断しようとしている」
短い返事。
それだけだった。
遊は苦く笑う。
「同じようなもんじゃねぇか」
その言葉にも、鷹宮は否定しなかった。
◇
重い扉の前で足が止まる。
認証装置にカードをかざす。
電子音。
ゆっくりと扉が左右へ開いた。
部屋の中は薄暗かった。
天井近くの照明だけが点いている。
広い空間の中央には、幾本もの配線が床を走り、その先には見慣れた装置が静かに並んでいた。
遊の視線が自然と炉へ向く。
巨大な外殻は静かに呼吸するように明滅し、低い振動が床から足裏へ伝わってくる。
以前とは違う。
どこか、生き物のようだった。
遊は眉をひそめる。
「……こんな部屋、あったか」
「最近使い始めた」
鷹宮はそう言って扉を閉めた。
部屋はさらに静かになる。
外の音が完全に消えた。
遊は振り返る。
「で?」
「見せたいもんって何だ?」
鷹宮は答えない。
ゆっくりと部屋の奥を見る。
その視線を追って遊も目を向けた。
誰もいない。
そう思った。
次の瞬間だった。
棚の陰から、小さな足音が聞こえた。
軽い。
人の歩幅よりずっと小さい。
コツ。
コツ。
コツ。
遊の視線が止まる。
ゆっくりと姿を現したのは、一人の少年だった。
十歳ほどに見える。
白いシャツ。
黒いズボン。
整った顔立ち。
どこにでもいる子どもにしか見えない。
だが。
歩き方が違う。
一歩一歩を確かめるように。
世界そのものを観察しているように。
少年は遊の前で足を止めた。
静かに見上げる。
その瞳は、驚くほど澄んでいた。
遊は思わず口を開く。
「……誰だ?」
鷹宮が低く答える。
「驚くな」
遊は目を離さない。
少年も遊から目を逸らさない。
互いに何も言わない時間だけが流れる。
鷹宮は静かに息を吐いた。
「彼は人間ではない」
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