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器 -UTSUWA- 零  作者: 猿吉


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第四十九章 驚くな

研究所の廊下は、朝だというのに静かだった。


窓から差し込む淡い光が、磨かれた床に細長い影を落としている。遠くで換気装置の低い駆動音が途切れることなく響き、その音だけが建物に命が残っていることを知らせていた。


遊は資料を抱えたまま廊下を歩く。


昨夜、ひよりと読み返した澪の研究記録が、まだ頭から離れなかった。


『未来を選ぶのは、未来を生きる人たちであってほしい』


何度読み返しても、その一文だけは胸の奥へ沈んでいく。


澪は何を見ていた。


何を知り。


何を残そうとした。


答えは、まだ遠かった。


角を曲がろうとしたその時だった。


「遊」


低く落ち着いた声が背中に届く。


振り返ると、鷹宮が立っていた。


白衣の胸元を軽く押さえたまま、真っすぐこちらを見ている。


その表情はいつもと変わらない。


だが。


遊は気づいた。


鷹宮の右手が、資料の端をわずかに強く握っている。


紙が小さく音を立てた。


普段なら、そんな握り方はしない男だった。


「……どうした」


遊が尋ねると、鷹宮は一度だけ視線を落とした。


それから短く言う。


「来い」


「今か」


「ああ」


「見せたいものがある」


遊は首を傾げた。


「そんな改まる話かよ」


鷹宮は答えない。


踵を返し、そのまま歩き始める。


遊も無言であとに続いた。



研究所の奥へ進むにつれ、人の気配は少なくなっていく。


照明も必要最低限しか点いていない。


壁際に並ぶ機器のランプだけが、小さく点滅を繰り返していた。


二人の足音だけが長い通路に反響する。


鷹宮は歩く速度を変えない。


だが、右手はずっと資料を持ったままだった。


親指が紙の縁を何度もなぞる。


離れそうになっては戻る。


その繰り返し。


遊は横顔を見ながら思う。


(迷ってやがる)


鷹宮は迷う姿を見せない男だ。


だからこそ、そのわずかな仕草が、かえって大きく見えた。


「鷹宮」


「何だ」


「お前でも迷うこと、あんだな」


歩みがほんの少しだけ遅くなる。


だが止まらない。


「……迷っているわけじゃない」


「じゃあ何だ」


「判断しようとしている」


短い返事。


それだけだった。


遊は苦く笑う。


「同じようなもんじゃねぇか」


その言葉にも、鷹宮は否定しなかった。



重い扉の前で足が止まる。


認証装置にカードをかざす。


電子音。


ゆっくりと扉が左右へ開いた。


部屋の中は薄暗かった。


天井近くの照明だけが点いている。


広い空間の中央には、幾本もの配線が床を走り、その先には見慣れた装置が静かに並んでいた。


遊の視線が自然と炉へ向く。


巨大な外殻は静かに呼吸するように明滅し、低い振動が床から足裏へ伝わってくる。


以前とは違う。


どこか、生き物のようだった。


遊は眉をひそめる。


「……こんな部屋、あったか」


「最近使い始めた」


鷹宮はそう言って扉を閉めた。


部屋はさらに静かになる。


外の音が完全に消えた。


遊は振り返る。


「で?」


「見せたいもんって何だ?」


鷹宮は答えない。


ゆっくりと部屋の奥を見る。


その視線を追って遊も目を向けた。


誰もいない。


そう思った。


次の瞬間だった。


棚の陰から、小さな足音が聞こえた。


軽い。


人の歩幅よりずっと小さい。


コツ。


コツ。


コツ。


遊の視線が止まる。


ゆっくりと姿を現したのは、一人の少年だった。


十歳ほどに見える。


白いシャツ。


黒いズボン。


整った顔立ち。


どこにでもいる子どもにしか見えない。


だが。


歩き方が違う。


一歩一歩を確かめるように。


世界そのものを観察しているように。


少年は遊の前で足を止めた。


静かに見上げる。


その瞳は、驚くほど澄んでいた。


遊は思わず口を開く。


「……誰だ?」


鷹宮が低く答える。


「驚くな」


遊は目を離さない。


少年も遊から目を逸らさない。


互いに何も言わない時間だけが流れる。


鷹宮は静かに息を吐いた。


「彼は人間ではない」

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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