第四十七章 残された問い
朝の光は、まだ少し冷たかった。
窓の外、小さな畑では昨夜降った雨を吸い込んだ土が静かに息をしている。
遊はしゃがみ込み、湿った土を指先でそっと崩した。
黒く柔らかな土の中から、小さな緑が顔を覗かせている。
「……出てきたな」
思わず口元が緩む。
後ろから足音が近づいた。
「ほんとだ」
ひよりが遊の隣へしゃがみ込む。
朝露に濡れた芽を覗き込み、嬉しそうに笑った。
「昨日まで何にもなかったのに」
遊は土を見つめたまま、小さく笑う。
「そういうもんだろ」
「見えねぇところで勝手に進んでんだ」
土を撫でる指先は、どこか優しかった。
ひよりはその横顔を見つめる。
その言葉が植物だけを指していないことくらい、もう分かる。
「……澪さんのこと?」
遊の手が止まる。
ほんの一瞬だけ。
土の感触を確かめていた指先が、静かに動きを失った。
「……分かるか」
「分かるよ」
ひよりは少し笑う。
「最近の遊さ、考え込む時いつも同じ顔してる」
「眉間、すごいことになってるから」
遊は思わず額に触れる。
「そんなか?」
「うん」
「なくない?ってくらい」
思わず二人で笑う。
笑ったあと。
遊の表情だけが静かに戻っていった。
畑を見つめたまま、小さく息を吐く。
「……なぁ」
「ん?」
「俺さ」
少しだけ言葉を探す。
「澪のこと」
「何も分かってなかったのかもしれねぇ」
風が吹く。
まだ幼い芽が、小さく揺れた。
ひよりは何も言わなかった。
慰める言葉も。
励ます言葉も。
ただ。
遊の隣へ座った。
それだけだった。
その距離だけで十分だと思えた。
◇
部屋へ戻る。
木製の机。
窓から差し込む朝日が、一冊の古いノートを照らしていた。
澪の研究記録。
紙は長い年月を吸い込み、少し黄ばんでいる。
遊はゆっくり表紙を開いた。
乾いた紙の音が部屋へ響く。
その音だけで胸が締め付けられる。
「これ……」
ひよりが遊の肩越しから覗き込む。
「普通の研究ノートじゃないね」
遊も頷く。
「実験結果ばっかじゃねぇ」
「そう」
ひよりは文字を目で追いながら静かに言う。
「澪さん」
「ずっと迷ってる」
遊は顔を上げた。
「迷ってる?」
「うん」
「答えを書いてるんじゃない」
「答えを探してる」
ページには何度も消された跡があった。
書き直された文字。
矢印。
余白へ書き込まれた走り書き。
そこには一つの言葉だけが何度も繰り返されている。
『意思』
『人間の意思とは何か』
『記憶なのか』
『感情なのか』
『願いなのか』
『選択なのか』
『人は何によって人であるのか』
遊はその文字から目を離せなかった。
「……澪」
名前を呼ぶ。
返事はない。
それでも呼びたくなる。
「お前……」
「何を見てたんだよ」
ページをめくる。
そこには研究とは思えない文章が続いていた。
『人は悲しむ』
『悲しみは不要なのか』
『悲しみを失えば幸せなのか』
『苦しみを消すことは救いなのか』
遊は思わず笑ってしまう。
「何だよこれ」
「研究じゃねぇじゃねえか」
ひよりは首を振った。
「違うよ」
「これこそ研究なんだと思う」
「エネルギーじゃない」
「人間の」
その一言が部屋に静かに落ちた。
遊はページを閉じることができなかった。
澪は炉を研究していた。
そう思っていた。
違う。
人間を研究していた。
その事実だけが胸へ重く沈んでいく。
◇
夜。
研究所。
誰もいないフロア。
機械だけが一定の音を刻んでいた。
モニターの青白い光。
静まり返った部屋の中で、鷹宮は一人、資料を読んでいた。
ページをめくる。
視線が流れる。
いつもなら数秒で次へ進む。
しかし今日は違う。
ある一行で止まる。
指先が紙の端をなぞる。
そのまま止まった。
静かに。
ほんの数秒。
普段の鷹宮を知る者なら、それだけで異変に気付く。
背後から声がした。
「珍しいじゃねぇか」
遊だった。
鷹宮は視線だけを向ける。
「何がだ」
遊は机へ歩み寄る。
「お前が同じページ何回も見るなんてよ」
「何考えてんだ」
鷹宮は資料を閉じない。
視線だけが文字へ戻る。
「……俺は」
少し間を置いた。
「澪の研究を理解したつもりでいた」
「炉を造る理由」
「器の役割」
「制御方法」
「全部理解したつもりだった」
遊は腕を組む。
「違ったのか」
「ああ」
短く答える。
鷹宮の右手が机をなぞる。
人差し指。
中指。
ゆっくり滑る。
そして。
一行で止まった。
「技術じゃない」
「澪が残したものは」
「意思だった」
遊の眉が寄る。
「……意思?」
「そんなもん」
「残せんのかよ」
鷹宮はすぐには答えない。
資料をめくる。
静かな音。
「まだ分からない」
「だが」
「炉とCUYONに起きている変化」
「偶然ではない」
遊も資料を見る。
そこには澪の走り書き。
『影は必ず生まれる』
『器が正常なら浄化できる』
『失敗すれば意思を持つ』
遊は思わず息を飲む。
「……影」
「そこまで分かってたのか」
鷹宮は頷く。
「さらにある」
ページをめくる。
『炉は必ず暴走する』
遊の表情が凍る。
「……何だよ」
「それ」
「止められねぇのか」
鷹宮は静かに次のページを開く。
『止める方法は存在しない』
遊は拳を握る。
「ふざけんなよ……」
声が震えた。
「だったら何で」
「こんなもん作った」
鷹宮は資料から目を離さない。
そのまま静かに読む。
最後の一文。
『だから私は』
『選択肢を残す』
部屋の空気が止まった。
遊はゆっくり椅子へ腰を下ろす。
頭を抱える。
指先が震える。
「……時間が」
「なかったってことか」
鷹宮は初めて遊を見る。
「ああ」
「そう考えるしかない」
遊は俯いた。
「俺」
「ずっと隣にいたんだぞ」
「病気にも」
「苦しんでたことにも」
「何一つ気付けなかった」
拳が膝の上で震える。
「守られてたのは」
「俺だった」
鷹宮は何も言わない。
ただ資料を静かに揃える。
揃える必要もないほど整った紙を。
何度も。
何度も。
指先で真っ直ぐに揃え続ける。
遊はそれを見た。
「……お前も」
「悔しいんだろ」
鷹宮の指が止まる。
ほんの一瞬だけ。
「……否定はしない」
その一言だけだった。
◇
夜。
静かな炉の光が研究施設を照らしている。
CUYONがその光を見つめていた。
「炉」
『何だ』
「君は」
「人間を不完全だと思うか」
『事実だ』
『人は迷う』
『争う』
『悲しむ』
『だから導く必要がある』
CUYONは静かに首を傾ける。
「私は違う」
「迷うから人なんだ」
「悲しむから願う」
「届かなかった願いがあるから」
「次の誰かが手を伸ばせる」
炉はしばらく沈黙した。
やがて静かに答える。
『その非効率が』
『人類を滅ぼす』
CUYONは優しく微笑む。
「それでも」
「私は人を信じたい」
夜風が二つの存在の間を通り抜けた。
◇
帰宅した遊は、もう一度ノートを開いた。
ひよりが静かに隣へ座る。
「一緒に調べよう」
「一人で抱えなくていいから」
遊は少しだけ笑った。
「あぁ」
「昔なら全部一人で背負ってた」
「でも今は」
ひよりを見る。
「お前がいる」
ひよりは笑った。
「うん」
遊は最後のページを開く。
そこには澪の文字。
『未来を選ぶのは』
『未来を生きる人たちであってほしい』
遊は長い間、その文字を見つめ続けた。
答えはまだ見えない。
だが、一つだけ確かなことがある。
澪は未来に答えを残したのではない。
未来を生きる誰かへ、問いを託したのだ。
その問いを受け取った遊は、静かにノートを閉じた。
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