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器 -UTSUWA- 零  作者: 猿吉


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第四十五章 稼働前夜

研究棟の夜は、静かだった。


明日の最終確認は終わっている。


炉。


空呑。


器。


三つを繋ぐ最後の工程。


長い時間をかけてきたものが、ついに動き出す。


研究員たちは帰り、灯りの落ちた廊下には機械の低い音だけが残っていた。


成功。


誰もがそう思っていた。


けれど。


遊だけは、胸の奥に小さな違和感を抱えていた。


理由は分からない。


危険があるわけでもない。


計算上、問題はない。


それでも。


明日という日が、何かを変えてしまうような気がしていた。


研究室。


遊は机に座っていた。


目の前には明日の資料。


しかし、もう内容は頭に入ってこない。


ひよりは少し離れた場所にいた。


いつもの遊。


何かを考える時の顔。


静かで。


冷静で。


何にも揺らがないように見える。


でも違った。


机の上に置かれた手。


指先が、わずかに震えていた。


「遊」


声をかける。


返事はない。


しばらくして。


「……ひより」


低い声。


「うん」


「俺は……」


そこで言葉が止まる。


ひよりは待った。


無理に聞き出そうとはしない。


遊が、自分の言葉で話せるまで。


「俺は、何してきたんだろな」


その言葉に、ひよりは息を止めた。


遊がそんなことを言うのを、初めて聞いた。


いつもなら、


やるべきこと。


進むべき道。


未来のこと。


それだけを見ていた。


「澪は……」


遊の声が揺れる。


「ずっと俺を守っていた」


「俺が知らねぇところで」


「俺が気づかねぇところで」


拳を握る。


「俺は……」


机を見る。


「返せてねぇんだ」


ひよりが一歩近づく。


「遊」


「澪は、俺が立っていられるようにしてくれた」


「迷った時も」


「壊れそうな時も」


「いつも」


遊の呼吸が乱れる。


「なのに」


次の瞬間。


ドンッ。


拳が机を叩いた。


静かな部屋に乾いた音が響く。


「俺は……」


遊は拳を見つめる。


「守られていたくせに」


「分かったような顔をして」


「全部、自分で背負っているつもりで」


声が震える。


「一番大切なものを見ちゃいなかった」


ひよりは何も言えなかった。


遊は続ける。


「怖い……」


その一言。


それだけで。


何かが崩れた。


「時間が経つほど」


「澪の顔が曖昧になる」


「声が遠くなる」


「一緒にいた時間まで……」


遊は頭を抱える。


「薄れていく」


「……あんなに大切だと思っていたのに」


涙が落ちる。


「俺の中から、いなくなる……」


沈黙。


機械音だけが響く。


「由真も……」


遊は小さく呟く。


「俺は、何をしてやれた?」


「父親みたいな顔して」


「施設に入れて、邪魔者扱いして…殺した」


「ただ……」


言葉が詰まる。


「小さな命を抱いた時」


「守らなきゃと思った」


「でも」


遊は目を伏せる。


「その後の時間を、俺は知らない」


「澪がどんな思いで」


「どんな時間を過ごしていたのか」


「俺は……」


拳が緩む。


「何も知らねぇ」


その瞬間。


ひよりは駆け寄った。


遊を強く抱きしめる。


遊は動かなかった。


驚いたのではない。


どうしていいか分からなかった。


誰かに支えられることを。


ずっと忘れていた。


「遊」


ひよりの声。


「…一人で抱えなくていいよ」


遊の肩が震える。


「……」


「澪さんを大切に思ったこと」


「由真を守りたいと思ったこと」


「全部、本物だったよ」


涙が落ちる。


「…でも」


ひよりは続ける。


「今、私を大切にしたいと思う気持ちも」


「嘘じゃない」


遊は顔を上げる。


「心って」


ひよりは静かに言う。


「昔の場所に閉じ込めておくものじゃないと思う」


「流れていくものだから」


「澪さんとの時間も」


「由真との時間も」


「今、私といる時間も」


「全部、遊の中にある」


遊は何も言わなかった。


ただ。


ひよりを見た。


「…ひより」


初めて。


弱い声で名前を呼ぶ。


「うん」


「……ありがとう」


それだけ。


でも。


その言葉には、今までの遊にはなかったものが込められていた。



その夜。


毛布の中で二人は静かに想いを伝え合った。


……


思い出話。


昔のこと。


研究所に通っていた頃。


澪がいた時間。


まだ何も知らず、未来を信じていた頃。


ひよりは話した。


「最初、遊って怖かったんだよ」


「何でも一人で決めて」


「誰も近づけない感じがして」


遊は少しだけ笑う。


「そんなつもりはなかったな」


「本人だけ気づいてないのよねー」


久しぶりの笑顔だった。


やがて。


ひよりの声が小さくなる。


眠りについた。


遊は隣で静かにその顔を見る。


温かい。


穏やかな時間。


失いたくないと思った。



研究棟の奥。


遊は一人、炉の前に立っていた。


巨大な光。


静かな音。


いつもと変わらない。


「澪」


名前を呼ぶ。


返事はない。


「お前は何を知っていた?」


「何を守ろうとしていた?」


「何を残した?」


炉の光が揺れる。


一瞬。


ほんの一瞬だけ。


何かが反応したように見えた。


遊は目を細める。


明日。


完全稼働。


人類が望んだ未来への一歩。


そうであってほしい。


けれど。


胸の奥に残る感覚。


何かを生み出す時。


何かが変わる時。


必ず何かが失われる。


そんな予感。


炉は静かに光っていた。


まるで。


これから訪れる何かを。


すでに知っているかのように。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。ここから、物語は新たな展開を迎えます。お楽しみください。

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