第四十四章 ずれ
空呑稼働まで、三週間。
研究棟では、毎日同じ時間に実証実験が続いていた。
流入量。
反応値。
炉の安定性。
記録される数字は、以前よりも細かく管理されている。
空呑から生まれる流れ。
炉へ送られる感情。
そして、その中で発生するものを処理する器。
すべてが予定通り進んでいた。
◇
以前の遊なら。
一人で画面の前に座っていた。
異常を探し。
原因を探し。
答えを出す。
それで終わりだった。
誰かが聞けば必要なことだけを返す。
それ以上は求めなかった。
だが。
最近の遊は少し違っていた。
「ここ、もう一度確認してくれ」
「俺の見立ては合ってると思うか?」
研究員に資料を渡す。
「お前さんならどう見る?」
その言葉に、周囲が少し驚く。
遊が自分以外の判断を求めることは、ほとんどなかった。
◇
「珍しいな」
玄堂が静かに言った。
隣にいた鷹宮も画面から目を離さない。
「何について?」
「遊だ」
鷹宮は少し考える。
「以前より、人に確認するようになりました」
「ああ」
玄堂は研究室を見る。
「何を見ている?」
「聞いても言わないでしょうね」
「だろうな」
二人とも、それ以上は踏み込まなかった。
遊が隠しているというよりは。
まだ、自分の中で整理している。
そう感じたからだ。
◇
実験は順調だった。
空呑は動いている。
炉も安定している。
器の反応も問題ない。
数値だけを見れば。
完璧だった。
◇
「変だな」
遊が呟く。
「何が?」
ひよりが隣から画面を覗く。
「全部だ」
「全部?」
遊は表示された数字を見る。
「綺麗すぎると思わねぇか?」
ひよりは首を傾げる。
「いいことじゃないの?」
「普通ならな」
「普通なら?」
遊は答えなかった。
◇
ひよりは最近、遊を見る時間が増えていた。
前と同じ。
無愛想。
口も悪い。
でも。
何かが違う。
ここにいるのに。
どこか遠くを見ているような。
そんな感じがした。
◇
帰り道。
ひよりが声をかける。
「ねえ」
「ん」
「最近さ」
遊が振り向く。
「私、何かした?」
「は? なんで?」
「なんとなく」
少し笑おうとする。
でも、上手く笑えなかった。
「前より……遠い気がする」
遊は黙る。
「前から俺はこんなんだろ」
「そういうことじゃない」
ひよりの声が少し小さくなる。
「私、遊が何考えてるか分かりたいのに」
「全然分かんない」
その言葉に。
遊の足が止まる。
◇
何か言おうとした。
でも。
言葉が出なかった。
澪の手記。
そこに残されていたもの。
見てしまった未来。
考え続けていること。
全部を話せば。
ひよりはどうする。
怖がるのか。
悲しむのか。
それとも。
一緒に背負おうとするのか。
分からなかった。
◇
「……悪い」
出てきた言葉は、それだけだった。
ひよりは少し寂しそうに笑う。
「謝ってほしいわけじゃないんだけどな」
「分かってる」
「分かってないじゃん」
遊は黙った。
◇
その夜。
研究室。
誰もいない場所で。
遊は机の引き出しを開ける。
古いノート。
澪の手記。
何度も開いたページ。
何度読んでも。
同じ場所で手が止まる。
未来。
選択。
人が決めること。
澪は答えを残していなかった。
ただ。
選べるように残していた。
◇
遊は静かにノートを閉じる。
「……」
機械音だけが響く。
◇
翌日。
遊はまた研究へ戻った。
変わらない顔。
変わらない歩き方。
でも。
以前とは違った。
一人で答えを見つけるためではなく。
誰かに残すために。
そうしているように見えた。
◇
鷹宮はその変化に気づいた。
「玄堂さん」
「何だ」
「遊は何かを掴んだようです」
玄堂は黙って聞く。
「ですが」
鷹宮は続ける。
「逃げようとはしていません」
「……」
「誰かを守ろうとしているように見えます」
玄堂は静かに目を伏せた。
「なら、今は見守るしかないな」
◇
実験は続く。
空呑は動く。
炉も動く。
器も動く。
全ては予定通り。
ただ。
人の心だけが。
少しずつ。
予定とは違う方向へ流れ始めていた。
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