第三十九章 炉
空呑稼働まで、九週間。
研究棟の奥。
遊は炉の前に立っていた。
何度も見てきたものだった。
巨大な構造。
幾重にも重なった制御機構。
内部を巡る配管。
人の手で作られたもの。
けれど、ただの機械とは思えなくなっていた。
空呑を見たからだ。
小さな処理機構。
炉へ流れ込むものを整えるための存在。
大きさは違う。
役割も違う。
それでも、どちらも何かを受け入れるために作られている。
遊はしばらく黙っていた。
「珍しいな」
背後から声。
振り返る。
鷹宮だった。
「何が」
「お前が炉を眺めてる」
「見てただけだよ」
「そうか」
鷹宮は炉を見る。
「状態は?」
「問題ねぇ」
遊は即答した。
「炉そのものはな」
鷹宮は少し目を細める。
「空呑か」
「ああ」
遊は端末を開く。
「まだ繋いでねぇのに、反応した」
「予定にはないな」
「そう、ない」
短い返事。
鷹宮は静かに画面を見る。
「原因は?」
「分からねぇ」
遊は続ける。
「ただ、想定より桁違いに大きい」
「感情流入の量か」
「ああ」
鷹宮は黙った。
「炉は耐えられると思うか」
遊は炉を見る。
少し考えた。
「分からねぇ」
鷹宮が見る。
「珍しく弱気だな」
「なら、もっと時間を稼いでくれよ」
◇
鷹宮が去った後。
遊はその場に残った。
炉の音。
低く一定の振動。
いつもの音。
だが。
空呑の反応を見た後では、少し違って聞こえた。
遊は小さく息を吐く。
「……いるか」
返事はない。
少し待つ。
すると。
内部の光がわずかに揺れた。
『ここにいるよ』
短い声。
幼い。
遊は少しだけ目を細める。
「起きてたか」
『うん』
「さっきの分かったか」
『……うん』
「空呑だ」
少し間。
『おおきい』
「力がか?」
『うん』
炉の反応が少し強くなる。
『もっと、できる』
遊は黙る。
「何がだ?」
『たくさん』
『たくさん、できる』
言葉は幼い。
けれど、その中には迷いがなかった。
『あったかくできる』
『明るくできる』
『困ってるの、減らせる』
遊は炉を見る。
炉にとって力は怖いものではない。
使うもの。
誰かのために。
「そう思ってるのか」
『うん』
遊は少し黙った。
炉はまだ知らない。
力が大きくなることが、いつも良い結果になるとは限らない。
感情には形がなく。
同じものでも、人によって違うことを。
「……まだ子供だな」
『こども?』
「知らないことがあるってことだ」
少し間。
『でも』
「?」
『できるなら、したい』
遊はその言葉を聞いた。
単純だった。
でも、嘘じゃない。
「そうか」
◇
制御室へ戻ると、玄堂が待っていた。
「炉と話してきたか」
遊は少し驚く。
「なぜそれを?…分かるのか」
「お前の様子を長く見ていればな」
「純真な心の感情だけを集めたものーー感情の発現は予想できたことだ」
玄堂は笑わない。
ただ静かに炉を見る。
「どうだった」
遊は答える。
「子供のようなものだ。純粋に世の中の役に立とうとしてる」
玄堂は少し目を伏せる。
「そうか」
「力が増えれば、もっとできると思ってるみてぇだ」
「悪い考えではない」
玄堂は言った。
「だが、力は使う者の意思だけでは決まらない。空呑にやって流れ込む感情をセーブせねばなるまい」
遊は黙る。
その言葉は、今の問題そのものだった。
◇
接続許可の判断。
空呑の結果。
炉の状態。
予測される危険。
全てが並べられた。
安全とは言えない。
しかし。
止まる理由もない。
鷹宮が口を開く。
「進める」
短い言葉。
玄堂も頷く。
「接続準備へ」
◇
研究員たちが動き出す。
炉。
接続フィルター。
空呑。
まだ何も流れていない。
繋がる準備だけが進んでいく。
遊は最後に炉を見る。
「無茶すんなよ」
返事。
小さな振動。
『うん』
その返事は、少し嬉しそうだった。
静かな機械音が続く。
未来へ向かう準備が始まった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
炉は「危険な存在」ではなく、善意を持った未成熟な存在です。そう、皆がそれぞれの正義を行使しているに過ぎない。なのに、歪みが出る。。




