第三十七章 設計図
いよいよ空呑の検証が始まります。
空呑稼働まで、十二週間。
遊は研究棟へ戻った。
扉を開けると、独特の空気が流れてくる。
金属の匂い。
冷却装置の低い音。
機械が眠りながらも、わずかに息をしているような振動。
研究員たちは、遊の帰還に気づくと一瞬だけ視線を向けた。
しかし、すぐに作業へ戻る。
今は立ち止まっている時間ではない。
記録を確認する者。
制御系を調整する者。
実験機の周囲で細かな点検を続ける者。
それぞれが、自分の役割を理解して動いていた。
研究棟の中心。
そこには、空呑があった。
ごく小さな構造体。CUYONほどの大きさだろうか。
すでに組み上げられた実験機。
外装も接続部も完成している。
形だけを見れば、いつでも稼働できるように見える。
だが、遊はそう思わなかった。
完成とは、動くことではない。
完成とは、最後まで壊れずに存在し続けることだ。
遊は設計図を開いた。
「確認を始める」
短い言葉。
研究員たちはすぐに動き出す。
「第一系統、照合開始」
「第三導管、設計との差異なし」
「制御部、数値一致」
報告が続く。
図面。
実物。
記録。
一つずつ確認していく。
導管の位置。
接続角度。
流量制御。
熱の逃げ道。
すべてが設計通りだった。
問題はない。
少なくとも、表面上は。
遊はもう一度、図面を見た。
どこかに違和感がある。
だが、それが何なのか分からない。
◇◆◇◆
確認を終えた遊は、過去の実験記録へ向かった。
空呑の開発記録。
炉の実験記録。
試験結果。
失敗。
修正。
膨大な資料が並んでいる。
そこには、多くの研究者たちが積み重ねてきた時間が残されていた。
遊は一枚ずつ確認していく。
そして、ある部分で手が止まった。
炉と空呑。
接続実験。
その記録がない。
正確には、接続を想定した資料はある。
しかし、実際に完全接続した結果が残されていなかった。
遊は眉を寄せた。
「……」
さらに資料を読み進める。
そこには、数値が並んでいた。
感情流入量。
処理限界。
安全基準。
炉の許容量。
空呑の処理能力。
どれも理論上は正しい。
計算に狂いはない。
しかし。
遊の目が止まる。
「……これは」
記された数値。
それは、実際の観測ではなかった。
想定値。
理論上、発生するであろう最大値。
遊は静かに資料を閉じた。
違和感の正体。
それは、ここだった。
想定していた量と、実際に流れ込むもの。
その差。
桁違いだった。
遊の中で、いくつもの可能性が浮かぶ。
炉は耐えられるのか。
CUYONは処理しきれるのか。
もし限界を越えたら。
その先に何が起こるのか。
「……」
遊は資料を握ったまま、しばらく動かなかった。
◇◆◇◆
研究棟の奥。
CUYONは静かに立っていた。
いつものように動き回ることもなく、
空呑の方向を見ている。
理由は分からない。
言葉にもできない。
危険という意味すら、理解しているわけではない。
ただ。
身体の奥にある何かが、反応していた。
炉の中で流れる影。
それを受け止め、処理してきたCUYON。
しかし、あれは違う。
今まで感じたものとは違う。
大きい。
重い。
自分の中にある何かが、わずかに震える。
まるで、まだ知らないものを前にしているように。
◇◆◇◆
夕方。
研究棟の廊下。
遊が歩いていると、ひよりがいた。
「遊」
呼び止める声。
いつものひよりなら、もっと勢いがある。
何かを思いつけば、そのまま口にする。
しかし今日は少し違った。
「……疲れてる?」
「普通だ」
「普通って何」
いつもの返し。
遊は少しだけ口元を緩める。
けれど、ひよりはその表情を見ると、少し黙った。
「……」
「?」
「いや」
言葉が続かない。
普段なら迷わない。
けれど最近のひよりは、少しだけ慎重だった。
遊の前では。
自分が何を言うのか。
どう見られるのか。
そんなことを考えているようだった。
「ちゃんと休んでよ」
「分かってら」
「絶対分かってない顔してる」
いつもの調子。
けれど、その言葉のあと。
ひよりは少しだけ目を逸らした。
遊は気づいていた。
その変化に。
そして、少しだけ微笑ましく思った。
◇◆◇◆
夜。
研究室。
遊は再び資料を広げた。
設計図。
実験記録。
想定値。
そして、空白。
古い資料の端に、小さな文字が残っていた。
短い一文。
『未来で、選べるように』
誰が残したのか。
何を意味するのか。
今の遊には分からない。
ただ、その言葉だけが妙に引っかかった。
遊は目を閉じる。
問題は空呑ではない。
炉でもない。
問題は、その前提。
最初に置かれた想定そのものだった。
「……ここか」
空呑稼働まで、十二週間。
静かな時間が、動き始めていた。
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