第三十六章 朱色の空
さらに、器の世界の成り立ちが明らかになっていきます。合わせて器をお読みいただくと、さまざまなことが繋がってより一層お楽しみいただけると思います。
重たい扉が閉まる。
会議室に静寂が落ちた。
壁一面に投影された資料には、炉の出力推移が並んでいる。
右肩上がりの数字。
安定した供給。
国家規模の運用。
どれも成功を示していた。
しかし。
そのことに満足している者はいなかった。
「国内需要は十分満たせる」
一人の男が言う。
「ですが、それだけです」
資料が切り替わる。
海を挟んだ諸国。
交易路。
エネルギー供給計画。
炉が稼働し始めたことで、世界は大きく変わり始めていた。
化石燃料に頼らない社会。
危険な核反応を必要としない発電。
その恩恵は既に国中へ広がっている。
だが。
世界全体を見ればまだ足りない。
「我が国は炉によって先行しました」
「しかし国家規模で満足していては意味がありません」
「今後は世界規模で供給網を構築していく必要があります」
誰も反論しない。
理屈としては正しい。
炉は人類の歴史を変えた。
だからこそ次を求められる。
「出力向上が必要です」
新たな資料が映し出される。
空呑。
炉外感情蓄積補助装置。
会議室に小さなどよめきが走った。
「新たな炉を建設する予算はありません」
そう言ったのは、勘定方の宇佐見典膳だった。
声は平らで、揺れがない。
手元の帳面だけが、何度もめくられていた。
「であれば既存設備を改良するしかない」
「空呑はそのための装置です」
遊は黙ったまま設計図を見ていた。
違和感があった。
視線が一点で止まる。
数秒。
眉がわずかに寄った。
「このままでは駄目です」
「正常に稼働するかどうかも怪しい」
静かな声だった。
場の空気が変わる。
「主幹研究員として申し上げますと」
遊は資料から目を離さない。データや分析結果を指し示しながら続ける。
「感情流入量の制御が不完全です」
「炉本体との同期実験データも不足している」
「負荷試験の記録も足りません」
「理論上は成立しています」
「ですが実証が伴っていない」
空呑は未完成だった。
危険だから止まったわけではない。
開発者が無能だったわけでもない。
ただ。
理論に技術が追いつかなかった。
それだけだった。
だから多くの者は考える。
理論が正しいなら完成できるはずだと。
「私も同意見です」
鷹宮が口を開く。
「導入は時期尚早でしょう」
「追加試験が必要です」
数名の研究者も頷いた。
だが。
別の席から声が上がる。
「それに何年かかるのですか」
政治家だった。
まだ若い。
仕立ての良い上着の、袖口にだけ、目立たない継ぎが当ててあった。
北の郡から選ばれた議員、朝比奈誠吾だった。
「一年ですか」
「二年ですか」
「その間にも世界は動き続ける」
別の男が続ける。
「我々には速度も必要です」
「慎重さだけでは国は守れません」
その言葉に、会議室の奥から低い声が返った。
「慎重さを失えば、守るものそのものを失います」
遊が顔を上げる。
これまで発言していなかった男だった。
国防部門を預かる黒瀬玄真。
かつて前線の指揮官として、崩れかけた防衛線を立て直した功績を持つ。
その戦いで多くの命が失われたことも、会議にいる者のほとんどが知っていた。
黒瀬は資料を見たまま続ける。
「炉は、単なる発電設備ではありません」
「一度止まれば、国民の生活そのものが揺らぐ」
「ならば、炉を止める可能性のある装置を急いで組み込むことが、本当に国を守ることになるのか」
誰も答えなかった。
黒瀬の隣に座る女が、資料を一枚めくる。
「もう一つあります」
国防部門の情報管理を担当する榊透子だった。
彼女には、大規模な作戦で情報の伝達を誤り、前線の部隊を危険にさらした過去がある。軍関係者以外では知る者はいないが。
それ以来、彼女は一つの情報だけで判断することを避けていた。
「空呑の設計情報が外へ流れた場合も考える必要があります」
「外へ?」
政治家の一人が眉を上げる。
「炉そのものより、空呑のほうに価値を見いだす者が出る可能性があります」
榊は淡々と答えた。
「完成していない技術ほど、欲しがる者はいます」
「完成させるために必要な情報を買おうとする者もいるでしょう」
遊の視線が、榊へ向いた。
その言葉だけが、妙に引っかかった。
さらに少し離れた席では、軍服姿の男が腕を組んでいた。
真壁陣。
現在も現場に立つ指揮官だった。
前線で幾度も生き残り、その一方で、判断を誤って部下を失った経験もある。
真壁は資料から目を上げる。
「俺は技術のことは分からない」
「だが、現場から言わせてもらえば」
一度、言葉を切った。
「危ないものを急いで使うのと、危ないものを使わずに済ませるのは、同じじゃない」
「国を守るために必要なら使う」
「だが、必要だから使うのか、使えるから使うのかは分けたほうがいい」
遊は何も言わなかった。
三人とも、炉を止めろと言っているわけではない。
むしろ逆だった。
炉を守るために、それぞれが別のものを見ている。
国そのものを見る者。
情報を見る者。
現場の人間を見る者。
遊は一瞬だけ三人を見た。
まだ名前と立場が一致する程度だった。
話したこともない。
それでも。
この三人が、これから炉を巡る判断に関わってくることだけは、なぜか分かった。
「結論を急ぎすぎです」
遊は言う。
「この装置が完成しているのであったとしても、最低でも半年は必要です」
会議室が静まり返る。
「今までの実験期間を鑑みても、それ以下では十分な検証はできません」
「空呑は炉の根幹に関わる装置です」
「拙速な判断は避けるべきです」
鷹宮も頷く。
「私も同意見です」
しかし。
議長は首を振った。
「半年は長すぎる」
即答だった。
「研究所側で精査してください」
「今までの研究実績を勘案し、十二週間の検証期間を与える」
「その結果をもって正式決定とします」
議長席の御堂惣一郎は、そう告げると、手元の書類を静かに閉じた。
閉じる直前、一枚の古い紙が、書類の間から覗いた。
色褪せた、講和の条文の写し。
御堂はそれを、誰にも見えないように指で押し戻した。
遊は眉をひそめた。
十二週間。
三か月。
何もできない期間ではない。
だが十分でもない。
研究者たちは沈黙する。
政治家たちも譲歩したつもりだった。
利権側にも焦りがある。
国防側にも、炉を守らなければならない理由がある。
誰もが自分の立場から最善を選んでいる。
だからこそ。
答えは簡単には出ない。
窓の向こうでは巨大な炉が空へ伸びていた。
白く輝くその姿は変わらない。
まだ誰も知らない。
この決定が。
未来の厄災へ続く最初の一歩になることを。
◇
「却下だ」
「何よ、まだ何も言ってないじゃない」
ひよりの声が研究室に響いた。
遊は机に向かったまま答える。
「どうせ面倒事だろ」
「面倒事じゃありません」
「絶対面倒事だ」
「失礼ね」
ひよりは頬を膨らませた。
そのまま机越しに身を乗り出す。
「外行くわよ」
「行かねぇ」
「行くの」
「行かねぇ」
「行く」
しばらく睨み合う。
先に根負けしたのは遊だった。
大きく息を吐く。
「……一時間だけだぞ」
「よしっ!」
ひよりは拳を握った。
まるで勝利した子供のようだった。
◇
丘の上には風が吹いていた。
草が揺れる。
空は青い。
遠くには炉が見える。
白く輝く巨大な塔は、空を支えているようにも見えた。
「たまには外もいいでしょ?」
「まぁな」
遊は小さく答える。
ひよりは少し驚いた。
否定されると思っていたからだ。
だが今日は違った。
風が吹く。
遊の髪が揺れる。
その横顔を見て。
ひよりは少しだけ見とれた。
最近ずっと難しい顔ばかりしていた。
だが今は違う。
少しだけ柔らかい表情をしている。
「んだよ」
「別に」
「変なやつ」
「そっちがな」
思わず笑う。
遊も少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
だが。
それだけで十分だった。
◇
帰り道。
夕陽が街を朱色に染めていた。
長く伸びた影が石畳の上を滑っていく。
店じまいの準備をする者。
家路を急ぐ者。
炉へ祈りを捧げる者。
穏やかな時間だった。
遊とひよりも並んで歩いていた。
会話は少ない。
けれど不思議と気まずくはない。
やがて。
ひよりはほんの少しだけ歩幅を変えた。
一歩。
また一歩。
自然に。
本当に自然に。
遊との距離を縮めていく。
肩が触れる。
わずかに。
だが確かに。
遊は視線だけ向けた。
ひよりは前を見たままだ。
「なによ」
「……いや」
遊はそれ以上何も言わない。
離れもしない。
避けようともしない。
ただ。
そのまま歩き続ける。
ひよりは少しだけ驚いた。
意味までは分かっていないのだろう。
けれど。
拒絶はされなかった。
それだけで十分だった。
夕暮れの風が二人の間を抜けていく。
遊は前を見たまま歩いている。
何かを考えている顔。
けれど。
どこか穏やかだった。
ひよりは小さく息を吐く。
胸の奥が少しだけ温かい。
今はそれでいい。
まだ伝えられない。
まだ言葉にならない。
それでも。
こうして隣を歩けることが嬉しかった。
朱色の空の下。
二人は肩を寄せたまま歩いていく。
◇
炉の最深部。
誰も立ち入ることのできない場所。
少年は歩いていた。
ぺたり。
ぺたり。
裸足の足音が光の床に響く。
見上げれば光。
見下ろしても光。
無数の導管が脈打ち。
白い輝きが巨大な血流のように炉の内部を巡っている。
人間が見れば設備だった。
だが少年には違った。
暖かい生き物の体内。
そんなふうに見えていた。
少年は壁を見上げる。
高い。
ずっと高い。
そのまま駆け出した。
壁を蹴る。
柱を蹴る。
天井近くまで一気に駆け上がる。
人ならば不可能な動きだった。
だが少年にはそれが自然だった。
面白かった。
ただそれだけだった。
ふと。
背中から伸びる管に触れる。
自分と炉を繋ぐ管。
それが何かは分からない。
だが気になった。
少し引く。
外れた。
その瞬間。
周囲の空気が揺らいだ。
黒い靄が滲み出る。
泣き声。
怒り。
悲しみ。
後悔。
届かなかった想い。
言葉になれなかった感情。
無数の影。
少年はじっとそれを見つめた。
怖くはなかった。
知っていたからだ。
それが何なのか。
なぜか知っていた。
少年は手を伸ばす。
影が光へ変わる。
一つ。
また一つ。
黒い感情は静かにほどけていく。
まるで雪が溶けるように。
あるべき場所へ還るように。
なぜできるのかは分からない。
なぜそうするのかも分からない。
けれど。
そうすることが自然だった。
少年は再び顔を上げる。
遥か上方。
光の柱の向こう。
まだ見たことのない場所がある。
あの先には何があるのだろう。
誰がいるのだろう。
胸の奥が少しだけ高鳴った。
理由は分からない。
それでも。
知りたいと思った。
少年はしばらくその先を見つめ続ける。
まだ誰も知らない。
その少年がやがて久遠と呼ばれる存在になることを。
そして。
人の届かなかった想いそのものを抱えながら、長い長い時を歩いていくことを。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。




