第三十五章 横顔
遊の様子がおかしい。
ひよりがそう思い始めてから、もう何日も経っていた。
研究室の中。
机の上。
積み上がった資料。
澪のノート。
遊はそこからほとんど動かない。
朝から晩まで。
何かに取り憑かれたように。
ページをめくり。
考え込み。
また書き込みを続けている。
「ねぇ」
返事はない。
「おーい」
ない。
「遊くーん」
「……ん?」
やっと返事が返ってきた。
「ん?じゃないわよ。何回声かけたと思ってんの!?」
ひよりは頬杖をつく。
「生きてる?」
「見りゃ分かんだろ」
「それが怪しいんだって」
遊はため息をついた。
「は!?アンタねぇ!」
遊はまたノートへ目を落とす。
その姿に。
ひよりは少しだけ眉を下げた。
最近ずっとこうだ。
炉が動き始めてから。
澪のノートを見つけてから。
明らかに変わった。
前から頑固だったけれど。
今はもっと悪い。
一人で抱え込んでいる。
「調子狂うなぁ」
「ねぇ」
「今度はなんだ」
「話聞くわよ」
「別に困ってねぇ」
「困ってる人ほどそう言うんだから」
遊はようやく顔を上げた。
少し疲れた顔。
目の下には薄い隈までできている。
ひよりは胸が痛んだ。
だが。
そんなことを素直に言える性格でもない。
「ねぇ」
「だからなんだよ」
「今、一番引っかかってること」
遊が黙る。
珍しく。
本当に黙る。
そして。
長い沈黙のあと。
「……澪だ」
ひよりは少し驚いた。
初めてだった。
遊が自分から話し始めたのは。
「澪さん?」
「あいつは何を知ってたんだろうな」
窓の外を見る。
遠くに炉が見える。
「俺たちよりずっと前から」
「影のことも」
「炉のことも」
「全部見えてたみてぇなんだ」
遊の声は静かだった。
怒りではない。
悲しみでもない。
もっと複雑な何か。
「助けたかったのかもしれねぇ」
ぽつりと遊が言う。
「誰を?」
「分からねぇ」
そして。
少し笑った。
苦い笑みだった。
「たぶん俺もだ」
ひよりは言葉を失った。
その横顔を見てしまったから。
そこには。
今の遊ではなく。
過去を見ている遊がいた。
澪を見ている。
由真を見ている。
失った誰かを見ている。
少なくとも。
自分を見てはいない。
その事実だけは痛いほど分かった。
「……そっか」
ひよりは笑った。
笑えたと思った。
けれど。
少しだけ声が震えていた。
遊は気づかない。
本当に気づかない。
ひよりは心の中で悪態をついた。
この鈍感。
研究だけして生きてきたみたいな男。
少しくらい気づきなさいよ。
そう思うのに。
言葉にはできない。
もしも言ってしまったら。
今の関係が壊れる気がした。
だから。
今日も笑う。
いつものように。
「ちゃんと寝なさいよ」
「わかった、わかった」
「ご飯食べなさいよ」
「食ってる」
「嘘」
「食ってる」
「絶対嘘」
いつものやり取り。
それなのに。
胸の奥だけが少し苦しかった。
窓の外では炉が静かに光っている。
研究室を包む静かな空気の向こうで。
その光は地上だけでなく、遥か地下へと続いていた。
ひよりも遊も知ることのない場所。
誰の視線も届かない深部で。
一人の少年が歩いていた。
裸足のまま。
光の道を。
ぺたり。
ぺたり。
小さな足音を残しながら。
少年は立ち止まる。
周囲を漂う影を見る。
悲しみ。
後悔。
届かなかった想い。
少年はそっと手を伸ばした。
影が光へ変わる。
雪のように。
朝露のように。
静かに消えていく。
少年はその様子を見つめていた。
何も言わず。
ただ。
どこか寂しそうな顔で。
まるで。
自分もまた誰かに届かなかった想いの一つであることを知っているかのように。
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