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器 -UTSUWA- 零  作者: 猿吉


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第三十四章 残された設計図

 空が高かった。


 雲は薄く。


 風は穏やかだった。


 窓を開けると、冷たい空気が研究室へ流れ込んでくる。


 遠くには炉が見える。


 巨大な塔。


 白い陽光を受けながら静かに立っていた。


 遊はしばらくその姿を見つめていた。


 炉が稼働してから。


 世界は変わった。


 人々はそれを希望と呼んだ。


 事実、その通りだった。


 空気は澄み。


 街は活気を取り戻し。


 争いも以前より減っている。


 誰もが未来を語るようになった。


 だが。


 遊の胸にだけは小さな棘が残っていた。


 机の上に置かれたノートへ視線を落とす。


 MIO。


 澪の残したノート。


 あの日から何度読み返したか分からない。


 読み返すたびに違和感が増えていく。


 遊はページをめくった。


 理論。


 仮説。


 実験記録。


 どれも異常な精度だった。


 炉の感情循環モデル。


 人格形成予測。


 影発生の可能性。


 現在、自分たちが直面している問題の多くが既に書かれている。


「あり得ねぇ……」


 思わず呟く。


 予測ではない。


 まるで見てきたかのようだった。


 ページの端には走り書きがある。


 急いで書かれた文字。


 途中で途切れた文章。


 まるで誰かに追われるように。


 あるページで手が止まった。


 そこには見慣れない見出しがあった。


 感情蓄積臨界点について


 その下には短い文章。


 炉は感情を循環できる。


 だが無限ではない。


 処理されない感情は残留する。


 残留した感情は集積する。


 集積した感情は意思を持つ可能性がある。


 そこで文章は終わっていた。


 続きはない。


 ページごと切り取られている。


 遊は眉をひそめた。


 偶然ではない。


 意図的だ。


 誰かが抜いた。


 あるいは。


 澪自身が残さなかった。


 その時だった。


 最後の方のページから小さな紙片が滑り落ちる。


 遊は拾い上げた。


 そこには一行だけ。


 書かれていた。


 ー まだ間に合う。


 遊の心臓が大きく鳴った。


 何がだ。


 何に。


 何が間に合う。


 その答えはどこにもない。


 だが。


 その文字からは強い意志だけが伝わってきた。


 澪は何かを知っていた。


 事故に遭う前から。


 もっと前から。


 炉が完成する前から。


 そして。


 その時初めて遊は思う。


 このノートは一冊ではない。


 澪は続きを残している。


 どこかに。


 必ず。


 ー その頃。


 炉の奥深く。


 誰にも知られない場所で。


 一人の子どもが歩いていた。


 黒い髪。


 幼い姿。


 どこか儚い輪郭。


 名もない存在。


 まだ誰も知らない存在。


 CUYON。


 その胸には小さな光が宿っている。


 まるで澪のノートに残された一行のような、小さくても消えない光だった。


 周囲には無数の影が漂っていた。


 泣いている影。


 怒る影。


 悲しむ影。


 後悔する影。


 届かなかった想いの残滓。


 かつてなら怪物となったはずのもの。


 だが。


 子どもは静かに手を伸ばす。


 影が触れる。


 すると。


 黒い輪郭が崩れた。


 雪のように。


 光となって消えていく。


 子どもはその光を見送った。


 なぜそうするのか。


 自分でも分からない。


 けれど。


 そうするべきだと知っていた。


 誰かから教わったわけではない。


 もっと深い場所で。


 誰かの願いと繋がっている気がした。


 それは、未来へ問いを残そうとした誰かの意志にも似ていた。


 ー 場面は再び地上へ移る。


 その遠く。


 地上では別の会議が始まっていた。


 炉の出力について。


 エネルギー輸出について。


 新たな集積装置について。


 利益について。


 数字について。


 未来について。


 誰も気づいていない。


 今まさに。


 炉の中で均衡が保たれていることを。


 そして。


 その均衡を崩そうとしているのが自分たち自身であることを。


 遊はまだ知らない。


 CUYONもまだ知らない。


 だが澪だけは。


 きっと知っていた。


 だからノートを残したのだ。


 未来へ向けて。


 問いを残すために。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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