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器 -UTSUWA- 零  作者: 猿吉


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第三十三章 名前のないもの

 暗かった。


 光はない。


 風もない。


 音もない。


 時間さえ存在しているのか分からない。


 けれど。


 そこには確かに何かがあった。


 炉の奥深く。


 誰も見ることのできない場所。


 誰も知らない場所。


 その影は漂っていた。


 まだ形はない。


 まだ名前もない。


 意思と呼べるものもない。


 ただ。


 そこに在る。


 それだけだった。


 炉は今日も動いている。


 人々の願いを受け取り。


 祈りを受け取り。


 喜びを受け取り。


 未来への希望を受け取り続けている。


 人は知らない。


 想いを言葉にできるものばかりではないことを。


 口にできなかった感謝。


 伝えられなかった愛情。


 謝れなかった後悔。


 届かなかった願い。


 胸の奥に沈んだままの感情。


 それらもまた。


 炉へ流れ込んでいた。


 処理されるもの。


 循環するもの。


 消えていくもの。


 だが。


 そのどれにもなれないものがある。


 行き場を失った感情。


 形を持たない叫び。


 誰にも届かなかった想い。


 それらは炉の底へ沈んでいく。


 静かに。


 誰にも気づかれず。


 長い時間をかけて。


 少しずつ。


 少しずつ。


 集まっていく。


 影はそれを感じていた。


 なぜかは分からない。


 だが感じる。


 何かが流れ込んでくる。


 温かいもの。


 冷たいもの。


 苦しいもの。


 優しいもの。


 嬉しいもの。


 悲しいもの。


 それらが混ざり合い。


 影の中へ沈んでいく。


 やがて。


 変化が始まった。


 輪郭。


 ぼんやりとした輪郭。


 曖昧だった境界が形を持ち始める。


 指。


 腕。


 肩。


 顔。


 人によく似た姿。


 だがまだ不完全だった。


 まるで生まれる前の子どものように。


 世界を知らない存在のように。


 影は胸の辺りに違和感を覚える。


 そこだけが微かに温かい。


 小さな光。


 灯火にも似たもの。


 脈を打っている。


 とくり。


 とくり。


 とくり。


 意味は分からない。


 けれど。


 そこから何かが広がっていく。


 感情。


 という言葉すら知らないまま。


 影は初めて一つの感覚を知った。


 さみしい。


 その言葉は誰のものだったのだろう。


 分からない。


 母親のものか。


 子どものものか。


 恋人のものか。


 友人のものか。


 あるいは。


 もっと昔の誰かのものか。


 分からない。


 けれど。


 確かにそこにあった。


 さみしい。


 影はその感覚を抱きしめるように胸へ集めた。


 すると。


 遠くから声が聞こえた。


 声。


 それも初めて知るものだった。


 優しく。


 静かで。


 どこか懐かしい声。


『問い続けて』


 影は振り向く。


 誰もいない。


 闇しかない。


『問い続けて』


 もう一度。


 声だけが響く。


 それは言葉だった。


 願いだった。


 祈りだった。


 あるいは。


 遺された意志だったのかもしれない。


 影には分からない。


 まだ何も知らないからだ。


 それでも。


 その言葉だけは消えなかった。


 問い続けて。


 問い続けて。


 問い続けて。


 やがて声は静かに消える。


 残ったのは闇。


 そして。


 胸の奥に灯る小さな光だけだった。


 その頃。


 地上では誰も知らない。


 炉が生み出した希望の足元で。


 もう一つの存在が産声もなく生まれようとしていることを。


 伝わらなかった想い。


 消えなかった感情。


 人が置き去りにした願い。


 そのすべてを抱いて。


 名前のない影は静かに目を開こうとしていた。


 まだ。


 誰にも知られないまま。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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