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器 -UTSUWA- 零  作者: 猿吉


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第三十二章 疑念

ある出来事から、澪の死に対して拭いきれない疑念が残る。

 研究所の窓から差し込む午後の日差しは、どこか眠たげだった。


 炉の稼働が始まってから数週間。


 世界は目に見えて変わり始めていた。


 街では灯りが消えなくなった。


 工房は夜まで動き続けるようになった。


 人々は未来という言葉を口にするようになった。


 それなのに。


 研究所の古い資料棟だけは、まるで時間から取り残されたように静かだった。


「うーん……」


 ひよりは背伸びをした。


 棚の上に積もった埃を払うたび、細かな粒が陽光の中で舞い上がる。


「なんで私まで片付けしなきゃいけないのかなあ」


「文句を言うなら、来なきゃよかったじゃねぇか」


 少し離れた場所から遊の声が返ってくる。


「帰ってほしいの?」


「そうは言ってねぇよ」


「じゃあ帰らな〜い」


 ひよりはにやりと笑った。


 相変わらずだ。


 遊は必要なことしか言わない。


 けれど最近は少し変わった気がしていた。


 以前なら本当に一人で作業していたはずだ。


 今は文句を言いながらついてくる自分を追い返さない。


 それだけでも大きな進歩だった。


 本人は認めないだろうけれど。


「ねぇ、遊」


「なんだ」


「最近、顔が怖いんだけど?」


「元からだ」


「そういうところ」


 遊は返事をしなかった。


 ひよりは肩をすくめる。


 炉が動き始めてから、彼はますます考え込むことが増えた。


 研究者たちは皆、希望に満ちている。


 なのに遊だけは違った。


 未来を見ているようでいて、どこか遠くを見ている。


 そんな気がする。


「ねえ」


「なに」


「ちゃんと寝てる?」


「寝てる」


「嘘」


「寝てる」


「絶対嘘」


 遊は面倒そうにため息をついた。


 その反応が少しおかしくて、ひよりは笑った。


 すると。


「……ん?」


 遊の動きが止まった。


 棚の奥から何かを引き抜いている。


 古びた冊子だった。


 革の表紙。


 色褪せた角。


 何年も誰にも触れられていなかったことが一目でわかる。


 遊は黙って表紙を見つめている。


「何見つけたの?」


 近づいて覗き込む。


 小さな文字が書かれていた。


 MIO


「あ」


 ひよりは目を丸くした。


「澪さんの?」


 遊は小さく頷いた。


 それだけだった。


 けれど。


 何かが違った。


 遊の目が妙に鋭い。


 まるで昔の記憶を探っているような顔だった。


「開けてみる?」


 遊は返事をしないまま表紙を開く。


 ページをめくる音だけが静かな部屋に響く。


 ひよりも横から覗いた。


 だが。


 数行で諦めた。


「ムズカし!?」


 思わず声が漏れる。


 細かな図。


 知らない記号。


 びっしりと並んだ文章。


 研究者という生き物はどうしてこんなものを書けるのだろう。


 ひよりにはさっぱり理解できなかった。


 けれど遊は違った。


 一枚。


 また一枚。


 読み進めるごとに表情が変わっていく。


 驚いているような。


 信じられないものを見ているような。


 そんな顔だった。


「何が書いてあるの?」


 遊はすぐには答えなかった。


 しばらくしてから。


「炉の理論だ」


 静かに言った。


「へえ」


「……ただ」


 そこで言葉が止まる。


 ひよりは首を傾げた。


「ただ?」


 遊はページの端に書かれた日付を見ていた。


 その視線だけで、ひよりにも何かがおかしいことは伝わる。


「どうしたの?」


「この日付だ」


「うん」


「計画が始まる前だ」


 ひよりは瞬きをした。


「え?」


「正式な研究が始まるより前に、炉の基礎理論がまとめられている」


「そんなのありえないわよ!だって…」


 そう言いかけてやめた。


 昔、澪が研究室にいた頃、ひよりは何度か遊の研究について話したことがあった。


 だからといって、澪が炉の理論を描けるとはどうしたも思えなかった。


「……普通はない」


 遊は再びページをめくった。


 その指先が少しだけ強張っている。


 ひよりには理由がわからない。


 だが遊は何かを見つけてしまったのだろう。


 そんな予感だけはあった。


 彼の目が文章を追う。


 そして。


 ある一節で止まった。


 長い沈黙。


 ひよりは遊の横顔を見る。


 彼は完全に文章の中へ入り込んでいた。


 やがて。


 遊はゆっくりとその一文を読み返した。


 まるで確かめるように。


 何度も。


 何度も。


 ー 人は想いを伝えきれない。


 ー 伝わらなかった想いは消えない。


 ー 消えない感情は蓄積する。


 ー やがてそれは別の形を持つ。


 遊の眉がわずかに動いた。


 その表情を見て。


 ひよりは初めて思った。


 もしかすると。


 遊は何かに気づいてしまったのかもしれない、と。


 けれど。


 何に気づいたのかまでは、ひよりにはわからなかった。


「遊?」


「……いや」


 遊はノートを閉じた。


 だが視線は表紙から離れない。


 MIO。


 短い名前。


 もうこの世にいない人間の名前。


 事故だった。


 そう聞かされている。


 誰も疑わなかった。


 遊も疑わなかった。


 今日までは。


 だが。


 このノートはおかしい。


 あまりにも先を見ている。


 まるで。


 これから起きることを知っていたかのように。


「どうしたの?」


 ひよりの声で我に返る。


「なんでもねぇ」


 そう答えながら。


 遊は初めて思った。


 澪は本当に事故で死んだのか。


 窓の外では。


 巨大な炉が夕陽を受けて輝いていた。


 まるで何も知らない子供のように。

いつもお読みいただき、ありがとうございます。

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