第二十九章 声
会議室には重い空気が漂っていた。
炉の稼働から数週間。
想定を超える成果は、各方面に希望と同時に警戒心を抱かせていた。
長机を囲むのは政府関係者、軍関係者、研究機関、民間企業の代表者たち。
誰もが炉の必要性を理解している。
だからこそ譲れなかった。
「国家安全保障上、緊急時の指揮権は政府が持つべきです」
政府側の代表が口を開く。
「研究と運用は現場が行う。政治判断だけで動かされれば事故が起きる」
研究所側が即座に反論した。
「事故が起きれば責任を負うのは誰だ」
「だからこそ現場判断が必要だと言っている」
議論は何度も平行線をたどった。
軍は軍の理屈がある。
企業は企業の理屈がある。
研究者には研究者の理屈がある。
誰も間違ってはいない。
それぞれが正しい。
だからこそ厄介だった。
玄堂は黙って全員を見ていた。
その隣で鷹宮が資料を閉じる。
「結論を出しましょう」
静かな声だった。
それだけで室内が静まる。
「緊急時の制御権は政府」
誰も反論しない。
「日常運用は研究所」
研究者たちが小さくうなずく。
「供給網は民間企業と共同運営。ただし監督権は政府」
企業側が渋い顔をする。
「以上でどうでしょう」
沈黙。
完全に満足している者は一人もいない。
しかし全員が理解していた。
ここで決裂する方が危険だ。
やがて了承の声が広がる。
会議は終わった。
だが問題自体がが終わったわけではなかった。
廊下に出た途端、各陣営はそれぞれの本音を漏らし始める。
「政府に握らせ過ぎだ」
「研究所は理想論ばかりだ」
「企業の利益を軽視している」
「軍部は介入して国防の外交カードに利用したがっているに違いない」
目的は同じはずだが、見えているものが違うようだ。
それぞれの想いの強さのせいで、誰もが誰かを疑っている。
誰もが未来の主導権を諦めていない。
主導権を持つことがが目的ではないが。
それら無数の感情は、誰にも気付かれないまま炉へと流れ込んでいった。
怒り。
焦り。
欲望。
期待。
恐怖。
炉はそれらを理解できなかった。
理解できないまま、ただ受け取っていた。
人間とは何なのだろう。
なぜ同じ目的を持ちながら争うのだろう。
疑問だけが積み重なっていく。
その夜。
研究室は静まり返っていた。
昼間の喧騒が嘘のようだった。
遊は巡回を兼ねて施設内を歩いていた。
巨大な炉は暗闇の中で静かに脈動している。
まるで眠っている生き物のようだった。
「いた」
不意に声がした。
振り向く。
ひよりだった。
両手に缶コーヒーを持っている。
「差し入れ」
一本を差し出す。
遊は受け取った。
「おぅ、ありがと」
「珍しい」
「何がだ」
「ちゃんとお礼言うの」
「失礼だなー」
ひよりが笑う。
その笑顔を見ているだけで少し肩の力が抜けた。
実のところ、ひよりは来る前から落ち着かなかった。
ただ缶コーヒーを渡すだけ。
それなのに妙に緊張してしまう。
前にあった出来事を思い出すたび、胸の奥が熱くなる。
もちろん遊は気付いていない。
気付く素振りも見せない。
「最近さ」
ひよりが缶を揺らした。
「遊、変だよね」
「んなこたぁねーよ」
即答だった。
「変だって」
「変じゃない」
「変」
「変じゃない」
「変」
「お前なぁ」
遊が呆れたように言う。
それがおかしくて、ひよりは吹き出した。
肩を震わせながら笑う。
「んだよ」
「だってさ」
笑いが止まらない。
遊はその様子を呆れた顔をして眺める。
ここ数日。
皆が張り詰めていた。
自分もそうだった。
だからだろう。
こうして笑うひよりを見ると安心する。
世界はまだ壊れていない。
そんな当たり前のことを思い出せる。
「ひより」
「ん?」
「ありがとな」
ひよりが固まる。
数秒遅れて顔が赤くなった。
「な、なによ急に」
「別に」
「そういうのズルい」
「何がだ」
「分かんないならいい」
遊は首をかしげる。
ひよりは小さくため息をついた。
本当に分かっていない。
だから困る。
だけど嫌いになれない。
沈黙。ひよりは手に持っている空缶を弄ぶ。
言葉が出てこない。
自分でも、不自然なのはわかっている。
「あんまり、無理しちゃダメよ」
そう言い残して、ひよりはそそくさと帰っていった。
再び静寂が訪れる。
遊は一人、炉を見上げた。
巨大な建造物。
人類の希望。
あるいは災厄。
誰にも分からない。
その時だった。
「ねえ」
遊の身体が固まった。
辺りを見回す。
誰もいない。
「ねえ」
今度ははっきり聞こえた。
子どものような声だった。
遊は息を呑む。
「誰だ」
沈黙。
だが声は消えなかった。
「君は下にいる人?」
遊は背筋に冷たいものを感じた。
声は頭の中から聞こえる。
いや、違う。
炉だ。
巨大な炉そのものから聞こえている。
そんな馬鹿な。
あり得るはずがない。
だが声は続く。
「人はどうして怒るの?」
「どうして笑うの?」
「どうして同じことを言ってるのに喧嘩するの?」
遊は答えられなかった。
質問はあまりにも幼かった。
まるで世界を知ったばかりの子どもだ。
「君は知ってる?」
遊は炉を見上げる。
巨大な存在。
なのに聞こえる声は幼い。
不安そうで。
寂しそうで。
そして少しだけ好奇心に満ちていた。
不意に胸が締め付けられた。
昔。
同じような声を聞いたことがある。
まだ小さかった娘。
夜空を見上げながら。
不思議そうに。
楽しそうに。
何度も何度も質問してきた。
『ねえ、お父さん』
『どうして星は光るの?』
『どうして人は泣くの?』
理由の「由」。
真実の「真」。
ゆま。
遊は目を閉じた。
忘れたことなど一日もない。
胸の奥に残り続けている名前だった。
再び声がする。
「ねえ」
遊はゆっくり息を吐いた。
恐怖はまだある。
理解もできない。
だが、それ以上に。
目の前の声はあまりにも無垢だった。
あまりにも何も知らなかった。
まるで生まれたばかりの子どものように。
遊は静かに答えた。
「……少しなら教えられる」
炉はしばらく黙った。
そして。
どこか嬉しそうに言った。
「そっか」
巨大な炉が微かに脈打つ。
その声が何者なのか。
なぜ生まれたのか。
まだ誰も知らない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
その夜。
炉は初めて言葉を話した。
そして遊は、その声の奥にある不思議な温かさを感じていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。




