第二十五章 わずかな脈動
朝早くから、研究所の外が騒がしかった。
山の斜面を削って作られた搬入口には、朝靄がまだ薄く残っている。湿った土の匂いに混じって、油と鉄の匂いが流れてきた。
大型車両の低い駆動音。金属を吊り上げるワイヤーの軋み。怒鳴るような誘導の声。今まで静かだった山間の施設は、ここ数ヶ月で別の場所になり始めていた。
巨大な資材が運び込まれていく。
鋼材、配管、冷却装置、制御盤。
以前なら数人がかりで何日もかけて運んでいたものを、重機が軽々と持ち上げていく。
窓越しにその様子を見ながら、遊はしばらく黙っていた。
「……でげぇなぁ」
遊は見上げる。
隣で、ひよりが紙コップを両手で持ちながら、ぼんやり外を見ている。
「前なんか、あんたと二人で半日かけて運んでたのに」
「腰やったな、あん時」
「やったやった。しかも次の日普通に続きやろうとしてたし」
「止まったら終わる気ぃしてたからな」
「終わるのは腰の方だっつーの」
ひよりが肩をぶつけてくる。
遊は鼻で笑った。
外では巨大なフレームが組み上げられていく。
鉄骨が接続されるたび、鈍い音が空気に響いた。
炉はそこにある。
まだ骨組みに近い。
だが、それでも巨大だった。古代人が見たら,間違いなくそれを山だと思うだろう。
山を切り開いた敷地の中央で、それはまるで街そのものを飲み込む生き物みたいに存在している。
未完成の外壁には無数の足場が張り巡らされ、溶接の火花があちこちで散っていた。まだ骨組みのはずなのに、そこにはすでに巨大な臓器のような圧迫感がある。
「……実感わかねぇな」
遊がぽつりと言う。
「そりゃそうでしょ」
ひよりは苦笑した。
「だって少し前まで、あの狭っこい部屋で二人して配線つないでたんだよ? しかも手書きの設計図で」
「字が汚ぇって毎回怒られた」
「読めないんだもん。暗号かと思ったわ」
「読めてたじゃねぇか」
「雰囲気でね」
二人は少し笑う。
視線は自然と炉へ戻っていった。
研究は進んでいる。
夢物語みたいだった構想が、現実として形になっている。
本来なら、喜ぶべきことだった。
実際、嬉しくないわけじゃないが。
あまりにも急すぎる。
資材。
人員。
許可。
土地。
予算。
以前なら一つ通すだけで何週間もかかっていたものが、今は驚くほど滑らかに動いている。
まるで、最初からこの計画が通ることを知っていたみたいに。
「……なんかさ」
ひよりが窓に額を寄せる。
「ここまで来ると、逆に怖いね」
遊は答えなかった。
同じことを考えていた。
研究者としてなら、本来あり得ない速度だった。
技術ってのは、もっと泥臭い。
失敗して、止まって、また試して。その繰り返しでしか前に進まない。
だが今、自分たちの研究は、その段階を飛び越え始めている。
まるで、見えない何かに背中を押されるみたいに。
「鷹宮さん、死ぬんじゃない?」
ひよりが急に言った。
「昨日も三時間しか寝てないって」
「そいつぁいけねぇな」
「目ぇやばかったもん。半分くらい魂抜けてたし」
「元から薄いだろ、あの人」
「ひっどーい」
ひよりが吹き出す。
遊も少し口元を緩めた。
実際、鷹宮の動きは異常だった。
政府、企業、研究機関。
各方面との調整を、一人で捌いている。
本来、一研究施設では到底動かせない規模の計画だ。
それがここまで進んでいる理由を考えれば、鷹宮と、その背後にいる玄堂の存在は避けて通れない。
遊は視線を落とした。
机の端に、設計図が積まれている。
以前なら、それだけで数ヶ月分の仕事量だった。
今は違う。
描いたものが、すぐ現実になる。
その速度に、自分たちの感覚の方が追いついていない。
「……なんか変な感じだな」
「ん?」
「取り残されてるみてぇだ」
ひよりは少し黙る。
それから、小さく笑った。
「何それ」
「いや……」
遊は窓の外へ視線を向けた。
「ずっと、自分らで積み上げてきたつもりだったからな」
「うん」
「気づいたら、急に世界の方が動き始めた」
窓の外では、巨大クレーンがゆっくり旋回していた。
吊り下げられた鋼材が、朝日に鈍く光る。
ひよりはしばらくそれを見ていたが、ふと思い出したように口を開く。
「そういやさ」
「ん?」
「さっきの、結局なんだったんだろうね」
遊が視線を向ける。
「……あぁ」
少し前のことだった。
建設区域の一部で、突然警報が鳴った。
作業員たちが慌ただしく走り回り、無線が飛び交った。
炉の外壁付近で、一瞬だけ異常波形が観測されたらしい。
だが、原因は不明。
数値もすぐ正常に戻った。
「誤作動って話だったけど」
ひよりが眉を寄せる。
「なんか変だったんだよねぇ。空気っていうか」
「……まぁ、あんだけデカいもん組んでりゃ、多少は出るだろ」
「それならいいんだけどさ」
ひよりはどこか引っかかっている顔をしていた。
その時だった。
研究所の奥から、鋭い警報音が鳴り響いた。
二人の表情が変わる。
直後。
無線のノイズ。
怒号。
慌ただしく走る足音。
研究所の空気が、一瞬で張り詰める。
ドアが勢いよく開いた。
「ひよりさん!」
作業員の声。
「建設区域Bブロック、また波形が!」
ひよりが即座に振り返る。
「……また?」
「今度は深部側です!」
遊は立ち上がっていた。
ひよりが遊を見る。
「遊、来て。ちょっと変」
「あぁ」
二人は研究所を飛び出す。
外気が肌を打った。
建設途中の炉が視界いっぱいに広がっている。
薄曇りの光が、巨大な外壁に鈍く張りついていた。無数の配線と足場が絡み合い、未完成のまま呼吸しているみたいだった。
外壁付近では、作業員たちが慌ただしく動いている。
白い煙がわずかに上がっていた。
遊の視線は、そのさらに奥へ向いていた。
炉の中心部。
まだ起動していないはずの深部。
そこが、一瞬だけ。
脈打つように光った気がした。
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