激情の屏風倒し
辺りは静寂が満ちている。その正体は恐怖と哀切、そして虚無にも似た瞋りだ。馬庭篤哉という人間は大きく感情を動かすことを嫌う。本を読んでも勝負に負けても、意味の分からぬ誹りを受けても、極力感情を動かさないようにしている。動かさない、というより動かないのだ。昂りを厭うがゆえに激しい憤怒も恋情も抱いたことはあまりない。逆に、一度感情を刺激してしまうと自身でも手を付けられない状態になる。本好きの篤哉は、貧乏の中で購入した無名の本が予想以上の出来栄えだった時、二晩涙が止まらなかったことがある。豪雨が堰を切るように感情が流れ出してくるのだ。常より抑えている感情が一遍に溢れるのかもしれない。
今も、小さな目をぐるぐる泳がせて命乞いをする老人と提灯持ちを無言で見降ろしている。傍では提灯が消えずに燈っていた。炎の色が通常の色と違う。珍しい油を使っているのか、もしくは魔法が関係しているかもしれない。提灯持ちの名はどうでもいいが、老人の正体は意外なものであった。
メルクライ・クールクール。ソルベの精錬鍛冶所のトップである所長だ。半公半民の施設であるため、民間人でありながら役人、領主にも顔が効き防壁工事のも関わっていた。また、職業柄ホロライズともかねてより親交があり、ヘラとも知人であった。相当な小心者で、篤哉が無機質に問うがままに情報を吐き出した。
メルクライはこの秘密の資材置き場に保管された魔鉱原石を、翌日必要な分だけ毎晩回収しにくるのだ。その際、領主に捧げられる幼女も一緒に回収する場合があり、それがたまたま今日だった。
ぎぎぎ、という奇妙な音がする。フウラの歯軋りと、篤哉が鞘を強く握った音が混ざった。その様子に危機を感じたのか二人が哀願を始めた。
「わ、わぁたしはただ精錬を請け負うだぁけじゃぁ。かどわかしにぃぃも、採掘にもぉぉか、関わっておらぁん」
「そ、そ、そうですよ、いわば職務の範疇内の事しかやっていませんよ!私なんか、ただ明かりをぶら下げて歩いてただけで、酷い悪事を働いたのは大体ホロライズか代官の手下です、へい」
揃って両手を前に突き出して、制止する。成程、理はなくもない。領内で行われている数々の悪事を思えば、メルクライは可愛いものかもしれない。だが、一度感情を昂らせた篤哉は止まらなかった。鬼のように冷たい炎が、眇の奥に揺らいでいる。燃料は、五つになるかという幼女の遺体だ。
「死ね」
こいつらの情状なんてどうでもいい。息絶え絶えの童より鉱石の利益を優先した、それだけで充分だ。
メルクライの貧相な顔に、倒れ込むように斬撃を食らわせる。ほぼ鍔元の、刃が厚く斬撃より打撃性の強い部分で頭蓋を破壊する。篤哉の手に大きな手ごたえが生じた。篤哉が受ける【剣客の加護】には斬撃の補正しかないため、打撃に対する耐久力は落ちるのだ。だが、今の篤哉にはその腕の痺れがなによりの安らぎになった。自分でも、素性を知らない幼女の遺体がどうしてここまで苦しいのかわからない。分からないまま呆けている提灯持ちににじり寄る。再び刀を掲げると、樋を通じて血滴が睫毛に落ちた。まるで血の涙を流しているかのようだ。そのまま、再び倒れ込もうとする。篤哉の体が神話の殲巨人のように膨らんだ。威圧を放ち全身を使って雪崩のような太刀を送る。馬庭念流の技【屏風倒し】である。脳天を唐竹割することもあれば肩に落とすことも、袈裟斬りのように斜に落とすこともある。
「うわああああ」
本能から出る恐怖の叫びをあげて、提灯持ちが逃げる。太刀を掲げたまま追ったが、それが振り下ろされることはなかった。相手の体は、すでに目の前から消えている。夜空を仰げば、月を背景にばたばたと藻掻き続ける二つの足と、首に巻きつく白い布が見えた。月が悪党を懲らしめんとその身に引き寄せているような錯覚を覚える。
「うぎゃひっ」
突如、その体がぶれて岩壁に叩きつけられる。岩の出っ張った、尖った部分に叩きつけられて固定された。白い布がぴらぴら揺れている。崖の上、下からは見えぬ場所から声が降ってきた。
「クキキ。予想以上の腕前だな。キッ、そこの女も強い、強い」
「誰っ」
フウラが問う。姿は見えないが、感じる気配は紛れもなく魔物のそれだ。しかもこの密度、野生にたむろする魔物ではなく魔王軍に所属するような相当の実力者である。人間一匹軽々と持ち上げて吊る技法といい、油断できない。
「尖るなよ。本当はオマエ達を吊りに来たんだがな、キキ。その腕と胆力を見て気が変わった。オマエら、オドルカに行け。腐れ代官共をぶち殺せ。クキキキッ」
「何だと」
「ホロライズも北にいる。黙って北に進めばこの場を見逃してやる。そうじゃなけりゃ、戦うしかないな。キキキィッ、それはそれで愉しそうだ」
「……」
篤哉は黙考した。篤哉もこの気配が尋常でないことを察している。悔しいが、ここは退くべきだろう。後ろには姉弟もいるのだ、これ以上この場に骸を増やしたくない。
「キキキ、そこの童はどこかの墓にでも埋めといてやる。作法は知らないが、土に埋めときゃ問題はないだろう。キキキキ、それでどうだ」
その声が決め手となり、篤哉が反転して元来た道を戻る。フウラも姉弟も黙って追従した。背中に感じる魔物の気配が徐々に薄くなっていく。振り向くと、幼女の死体が消え去っていた。そっと冥福を祈ると、再び熱い気持ちが溢れ出てきた。青白い貴重な原石を踏みながら、オドルカへ向かう。
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亡者の行進も、もう少し華やかというものだ。一日の仕事を終え、坑道を半死状態で歩く姿はアンデッドのようだ。一様に肋骨が浮き出て頬が窪み、目には糸ほどの光もない。操り人形のように不自然な動きで与えられた部屋に戻る。不自然な動きは長時間水に浸っていた足が腐ってふやけ、体を支えられないため安定しないのである。部屋とは名ばかりの、床が渇いていること以外は他と何も変わらない空間が、十人単位で与えられている。全て代官様のご厚意というやつだ。
「ぐええぼおぉ」
辿り着くや否や、黒い血を吐いて蹲る男。三十手前なのに頭髪が疎らで肺を侵されている。炭塵を吸い込んだためだ。気管にも食道にも煤がこびりついているため吐いた血は黒い。周りの仲間が駆け寄って背中をさすったり貴重な水を分けたりしている。先日入ったばかりの二人もいる。脱走者三人が惨い殺され方をされた時に連れてこられた二人だ。片方は頬に雀斑の目立つ犬顔の男、もう一人は青く細長い顔に短い脚、どっしりとした腰つきの男だ。どちらも酷い環境でよく働き、病人や怪我人の分まで働いて休ませるだけの気概を見せている。特に短足の男は穴を掘る速度が異様に速く、仕事効率が上がって視察に来た兵士たちも満足していた。
「聞いたかよ、隣の坑道の話」
「ああ……誰かが水脈ぶち抜いて溺れ死に……だろ。ひでえけど、この苦しみから解放されたんだから羨ましいなぁ」
「全くだ…こんな扱いを受けても、生きてえ生きてえと藻掻く自分が浅ましいよ」
呪いとも諦めともつかない、この世の底で這いずり回る者共の痛々しい自虐が苦しい。だが、そんな地獄の中でも気概を保ち続ける猛者はいる。
「出よう。ここから、皆で出ようぜ!ずっとうつ伏せで泥水を啜ってても気持ち悪いだけじゃないか」
「またかよ…そりゃ出れるなら出てえよぉ」
犬顔のオギュエは毎晩毎晩、一揆を促していた。最初は驚き、次に馬鹿なことを言うなと一蹴されたその言葉も積み重ねによって少しづつ皆の心に響いてきている。青い肌のルーレットも、静かに重ねる。
「奴隷が働かされるのは当たり前だ…労働がきつくて文句を言うのは角が違う。……だけど、奴隷でも太陽の光を浴びる権利はあるはずだ」
いつ生き埋めになるかわからない環境で、御代官様の厚意に甘んじて鶴嘴を振るうのが俺たちの運命なのか。いや、そんなはずはない。熱心に訴えるそれは赤心に違いない。それだけでなく、二人は見咎められる危険を冒して坑道中の部屋に出入りし、力を合わせてここから逃げ出そうと説いて回った。
山の内部でこんな噂が広まっている。
「近頃入ってきた二人の奴隷が、実は王府の密偵で自分たちを解放しようとしてくれている」
風雲は急を告げ、海から山の岩肌に打ち付ける風が今後の胎動を示すかのように山を揺らした。




