石清水のすれ違い
靄が晴れていくようにすっきりした顔のレイクに見送られて、四人は北へ進むことにした。防壁沿いにほぼ直線の道で、途中に湿地がある以外は難所もない。工事の関係で休憩地点も多くあり高い山もないためラゼの足がこれ以上痛むことも無いだろう。ラゼとミールは睦まじく会話しており、それを干し肉を齧りながらフウラが見つめている。ウーデから餞別にもらったのだ。篤哉もちびちび前歯で刻みながら濃いエキスを舌の上で遊ばせている。スルメみたいに細く裂かれているが、濃厚な旨み汁が嬉しい。ただ、喉が渇くのが難点だ。
「あそこ」
フウラも同じだったようで道端に湧泉を発見すると貂のように小走りに駆けていった。透明な水を手浚いで嚥み、篤哉を手招きする。石清水というやつで、割れ目から温泉のようにこぽこぽと水が湧き出てくる。口に含むと常温よりやや冷たい水が咥内の脂を流してくれる。
「美味いな」
「うん。ラゼもどう?」
「私は結構です…長旅で水分を取り過ぎるのは…」
恥ずかしそうに足を捩る様子にフウラは配慮が足りなかったと反省する。密偵稼業が長いと用足しの場所など選んでいられないため気づけなかった。姉の代わりに、ミールがごくごく満面の笑みで干すように飲んでいる。穢れとも羞恥とも遠い位置にいるその姿は尊いものだ。
穏やかな空気に、ふと不穏な霧が立ち込めた。霧は岩の陰から発生している。
「ぃぇ!」
短い声と共に爪先と呼ばれる投擲ナイフが飛ぶ。岩の隅を掠めて地面に突き刺さった。抉れた瘴気の中から痩身の男が現れる。苔色の服に膝丈の洋袴、なぜか手首にねじり鉢巻きを結んでいる。無言で陽炎のように夢幻と朦朧と歩んでくるその物腰は並の腕でないことを示している。
「誰だ」
「……」
「ホロライズに雇われたか」
「……侮るな。商人の飼い犬になどならん」
弱弱しい声だ。蚊の鳴く音はこのようなものか。男の言は侮辱に腹を立てているようだが表情は変化していない。陰惨な翳が差す目の壺が鈍い闇を湛えている。フウラがラゼを、篤哉はミールを庇う位置に陣取る。
「ご立派な意思で。それならなんだ、代官の手先か。それとも領主か」
「知らん。……吾輩は掲げた太刀を敵の脳天に落とすのみ」
抜刀した。痩せた、痩羸ともいえる病的に細い腕に似合わぬ強刀だ。何より抜刀の気配がなかった。見た目の筋肉では推し量れない強さがある。異世界のスキルのことも未だによくわからない、気を引き締めてかからねば殺される。
「無間の上段構え…んなわけないか」
腕を伸ばしきっているにもかかわらず持ち手も大帽子も微動だにしない。篤哉の目には刀が本体で痩せた体は幻影なのではと惑うほど安定した無心の構えだ。それは針ヶ谷夕雲が創始した無住心の剣法を彷彿させる。埼玉の本郷に小さな道場があり、二回交流したことがあるが、その時に見た師範の構えと、刺客の構えは似ていた。無心に対抗するには無心であるしかない。篤哉は左目に頼るのをやめて瞼を閉じた。
「……視界を棄てるか。その覚悟や美し」
唇を動かさずに刺客が言った。月の引力に海が歪むがごとく二人の距離が埋まる。フウラと姉弟は息も忘れて見ていた。
すれ違う。
月と海は刹那の邂逅を経て場所を逆にし再び対峙する。
「ぐぐぅ」
篤哉の顔が苦し気に歪む。落とされた剛鉄が耳朶を掠めて、酷い耳鳴りがする。痛む耳を庇うように、やや右肩を上げて構えた。この状態では無構を使えそうにもない。
一方の刺客は表情を変えずに篤哉を見つめている。やや息が荒い。徐々に息継ぎの乱れが顕著になり、やがて糸が切れた様にどさっと倒れ伏した。思い出したかのように赤い血が溢れだし、石清水を赤く染める。
「はぁぁ、何とか…」
篤哉も緊張が切れて姿勢を崩す。体が地面に打ち付けられる前に、駆け寄ったフウラの華奢な腕に支えられた。ラゼとミールが言葉も無く茫然としている。
「…強かったね」
「ああ、ヒルウィレムの手下が弱すぎたせいで油断してた…」
「そうじゃなくて。あつやが強いねって」
「そりゃ、どうも」
刺客の名も素性も知らないが、タイミングから見ると昨日の二人がホロライズか誰かに篤哉達のことを垂れ込んだのではないか。敵も神経質になっている。無謀にオドルカに近づくのは危ない。敵は少しずつおびき寄せて壊していく。
「ふう、もう大丈夫だ。予定通り、鉱石の運搬路を探すか」
出立前にレイクに警告された。オドルカ代官のシュフーヴァ・エクストンは老獪な曲者、その上ビーフォの村は警戒が厳しく坑道の入り口もはっきりとはわからない。まずは運搬路を探し出して鉱石が辿る道のりを知り、その上で行動を決めるべきだと。篤哉は運び先…おそらくホロライズの管理下であろうが、そこから片づけたいと考えている。だが、ラゼ達のことを考えると時間はかけられない。
去りざまに、横たわる死骸の口に湧き出る清水を含ませた。末期の水は薄い唇から溢れて濡らした。岩に横たわらせておけばその内誰かが気づくだろう。
「行くか」
篤哉は岩場の先にあるという湿原【フォウ泥原】、通称【無草の硬泥】へ向かった。




