絡む白布
「ぜぇぜぇ」
男は山の中、急斜面を駆け上がっていた。継ぎがうまくいかない呼吸も、錆びた錻力のようにぎくしゃくとした足取りも、朧幻に遠らぐ意識も、一旦は無視だ。手拭いで口元をぬぐう。中途半端に開いたままの口の中に薄い三角歯が見える。
「げほっ、うぇほっ。ここまで、来れば…」
噎せ返りながら、追手の気配がないことに安堵する。ノーチェラス達が酒盛りをしているところに突如エスプローダの兵士が武装して踏み込んできたのだ。その場で武器や鑿を取り戦う者は押さえつけられるか斬り捨てられ、逃げ惑う者も順に捕らえられていった。ノーチェラスは五人の兵士の壁に特製魔薬爆弾を投げつけて囲みを破り、煙幕の中逃走を果たした。西へ走り、いくつかの小貴族領に迂回してほとぼりを覚まそうと画策していた。
山を抜けて追手を完全に振り切って安心したのもつかの間、さらなる危険が迫っていた。
ぐうううぅぅぅ
「うおおおっ」
未開発の山の事、魔物がうようよ徘徊している。青い毛並みの熊に、【獣亜竜】と呼ばれる毛の生えた蜥蜴風の魔物、この山は危険な魔物が多かった。逃げ惑い、木に隠れてやりすごし、平地に出ようと走り続けた。
何時間も亡霊のように彷徨っていると、樹々の奥に開けた土地が存在しているのが見えた。心なしか光も漏れている気がする。
「人家か…はぁ、はぁ」
こんな危険地帯に人家があるとも思えないが疲労が極まっていたノーチェラスは引かれるようにその空間へ足を踏み入れた。
「な…」
何だ、これは。そう言おうとしたが声が出せない。おかしい。あまりに異様な光景だ。
山に生息する鹿が、恐ろしい毛むくじゃらの獣亜竜が、その他大小様々の動物が、一様に首を括っていた。通常生物も魔物も関係がない。円形に空いたスペースの真ん中に聳える大木の枝から白い布を首に巻いて吊り下がっている。特に四足歩行の鹿の首吊りの様子は悍ましく、少年暴行に馴れたノーチェラスが竦むほどの光景であった。
「……」
叫ぼうとして、声が出ないのに気付く。緊張からではない。思わず自分の首に手を添えて、地肌ではないざらざらした感触を指先に感じた。自分の首にもその白い布が絡んでいたことに気付く。手足をばたつかせて抵抗しても無駄だ。ゆっくりと布が大木の方向へと引きずられてゆく。足掻きも空しく、ノーチェラスの足は宙に浮き、彼の体は異様な風景の一部となった。
木の上から何者かが飛び降り、大木を眺めて恍惚とする。
「クキイ。いい出来だ。やはり首吊りは美しい。クキキ」
余った白布を長い爪で切り取り、腕に巻き付けてから、その者は場を去った。ノーチェラスの骸はまだ揺れている。
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「気になるか」
時折後ろを振り向くフウラに、篤哉が心配する。エスプローダに関しては全て見届けぬまま出発してしまった。イリュザに心からの同情を抱いていたフウラは心配で仕方ないだろう。
「うん。あの男が信用できると思えない」
「ベンジャミンか」
祭囃子が聞こえる中での攻防を終えた後、篤哉たちは部屋を後にした。ベンジャミン配下の職人たちを野放しにするわけにはいかない。イリュザはすぐさま屋敷内の全兵士に檄を飛ばしてノーチェラス達が暮らす寮へ踏み込ませた。業腹だが、命令にはアファの名前を借りた。イリュザの命令だと訝しむ者もいるからだ。そのアファはというと、誰もいなくなった私室で自害して果てた。女の手にかかるよりは自分の手で決着をと考えたのだ。最後まで頑迷固陋の人柄であったが自害の作法は完璧であった。
ベンジャミン・フロストは生かされた。短い会話の中で、この男は非道な悪党だが一定の条件がそろえば信用できると踏んだのだ。今後も悪行を尽くすのならば衝突するときが来るだろうが、ひとまずエスプローダの安定のために不可欠な人間である。イリュザも複雑な顔をしながら認めていた。ベンジャミン本人は、憑き物が落ちた様に笑っていた。その後も街の興行に力を尽くすと誓っていたし、嘘はつかないだろう。正直者ではないが騙す相手は選ぶ男だし、必要のない嘘はつかないという意思もある。もしかしたら、街の人に感謝される生活が案外気に入っていたのかもしれない、と篤哉は考えた。偽りの善行の中に、本当の善人への憧れが混じっていたのではないか。その可能性を信じてみたいと、篤哉は似合わないロマンチックな希望を抱いた。
「お前の不安ももっともだ。到底許すべき男じゃ無いからな」
「…あつやの判断に文句はない。心配かけてごめん」
やや信頼が重い。
篤哉とフウラは東に接するワーテルロー領に向かっていた。ベンジャミンから聞き出せるだけのことは聞いた。
「あれが大陸最北の山脈【オドルカ山脈】か」
道の左手に標高の低い山々の影が並ぶ。草一本生えない岩山で、その奥には【ニギャティシ海岸】がある。ベンジャミン曰くこの山脈のどこかできなくさい悪事が行われているという。その内容までは把握していなかったがワーテルロー領の首都ソルベにホロライズ・パロスが滞在していることを知らせてくれた。
「まずはソルベに向かう。それから防壁工事の様子を探って、並行して山脈の調査だ」
「わかった」
やや雲が多いが太陽光が強くいい日和だ。時々魔物らしき小動物が通るが、彼らもどこか弛緩した様子で、案外この太陽も仕事をしているんじゃないかと呑気なことを考えた。北の旅はまだまだ続く。




