潜入、ベンジャミン邸
「わざわざご足労ありがとうございます。ヒルウィレム様にもどうかよろしくお伝えください」
「ああ。ヒルウィレム様に、な」
「それから、これは足代にございます」
「馬鹿を言え。公務で来ているのだぞ」
「ここは往来ではございませぬぞ。お気になさらずお納めください」
深々と頭を下げて送り出した。
頭を上げるとつるりと血色の良い顔と広い額が見える。ベンジャミン・フロストは横柄な役人の接待が終わりふうと一息ついた。玄関まで見送りに行った手代が戻ってくる。呆れた声で、役人の横着を詰る。
「全く信じられません。あの男、旦那様からのみならず番頭さんや職人頭さん、見送っただけのわたしにすら金を要求してきましたよ」
「小役人とはそういう者です。いいですか、あのフィレンツ様は防壁工事の支配組頭を務めておられるのです」
北部防壁工事に従事する者は、高い技術力や専門知識が必要な作業を務める組と単純作業や工事以外の雑用を務める組に分かれている。前者はエリック率いる職人団、後者はヘラ・クスクスが派遣した奴隷がその職務を担う。支配組頭という役職は奴隷たちの監督指導を行う責任者だ。実質的にヒルウィレムに次ぐ地位を占める。
「細々とした稼ぎ方は商人である私たちから見れば馬鹿らしいものですがな、それであの地位を得たのですから間違いではないのでしょう。まあ、これで機嫌を直しなさい」
手代を相手に奇妙なまでの丁寧な言葉遣い。財布を取り出し、銀貨を数枚手代の手に落とす。持っていかれた額が倍になって戻ったので手代の顔に笑みが広がった。
「私たちは私たちが稼ぐことに集中しましょう。大分遅れていますから」
そう言って、心の中で歯噛みする。
そもそも、防壁工事の技術部門はベンジャミンが抱える職人たちにも任される可能性があった。ベンジャミンもそれに向けて大分金をばらまいたのだが、動きだすのが少し遅すぎた。抱える職人団はエリックの木鉄と犬猿の中で行かれる彼らを宥めるのに苦労したものだ。ベンジャミンの職人たちは魔法具や加護を得た道具を使って作業する。一方、エリックたちは極力魔法や加護に頼らず純粋な技術力で物を作りたいというのが信念で、その差が対立につながっているのだ。ベンジャミンの店自体も魔法具を扱っているので、売り込んでも頑なに拒否し続ける彼らを疎ましく思っていた。
だがしかし、仮にも王府お抱えの職人と一商人配下の職人を比べれば前者が選ばれるのは当然の話だ。だからこれはそこまで悔しがる内容でもない。
ただ、今回は出遅れに出遅れが続いた。ワーテルロー伯爵には鉱物商のホロライズ・パロスが、チャレスフ伯爵には材木商のレクシーミル・ウラヌスが癒着して、ベンジャミンの立ち入る隙はなかった。仕方なく爵位が下で工事現場からも遠いエスプローダ子爵に厄介になっているが、折角大儲けの機会だというのに赤字が続いていた。そしてこの際赤字ならば、と大きな企てを決め込むことにした。
「風が気持ちいいですね」
「はい」
「この田舎町の誇れるところは風の清々しさくらいでしょうか。ところで、あのお方に連絡を取ってもらえませんか」
「あのお方……マー」
「待ちなさい」
その名を口にしようとした手代を制止して、耳を澄ます。聞きなれない音が聞こえたのだ。
りぃん、りぃん。
「何だ、風鈴ですか」
「はて、つけた覚えはありませんが」
「店の誰かが酔狂でつけたのでしょう」
「なるほど、粋な音色ですね」
手代が気軽に言うと、ベンジャミンも警戒を解いた。まさか、この軽やかな鈴の音が建物に忍び込んだ密偵少女の喉から発せられたものだとは露ほども考えない。
【風鈴】のフウラ。彼女の声帯から生み出されるその音は聞くものを安らがせる効果がある。リラクゼーション効果、つまりは安心できるわけだ。安心とは、油断である。軽やかな音色に油断させられた二人は、自分の背後に構える後ろ盾の名を言った。
いや、言おうとした。
「おい女、何者だァ!」
「忍び込んだのか!」
怒声と物を倒すような音が響く。フウラは自分に向けられた声でないことを察し、その場を離れた。木に足をかけ、片足で蹴って反動で高い塀を超える。屋敷裏の道を周囲に気を配りながら走ると、押し殺すような吐息が聞こえた。
塵だめの中に、女性が隠れている。息が上がっていて靴が片方離れた路上に転がっていた。忍び込んでいた曲者だろう。
女は縋るような目で見てくる。フウラはどうにもその場を動けず、塵の中の目と一瞬見つめあった。
「おい、この路地は探したか!」
「いや、まだだ!」
追跡者の荒々しい声が聞こえた。見つめる目が泣き出しそうに歪む。瞬間、フウラは塵の中に手を突っ込み、手を握って駆けだした。冷奴みたいに冷たい手だ。
「おい、いたぞ!」
「二人に増えてる、挟み込め!」
「おい、こっちに来たはずだぜ」
忍び込む前にこのあたりの地形は把握している。フウラは地図がうまく書けることからわかるように、建物の立地を記憶するのが得意だ。それだけでなく、侵入や逃走経路を組み立てるのも得意で、密偵にはうってつけだ。泥棒にも。
「見失ったか」
悔しがる男たちを引き離し、フウラは女性の手を引いて篤哉の元へ走った。見た感じ泥棒ではないようだし、ベンジャミンの屋敷に侵入していたのだから事情を聴くべきだ。そしてそれは篤哉の得意とするところだった。
フウラの息はまるで乱れていないが、引かれて走る女性はすでに意識朦朧だ。冷奴のような手が、篤哉の待つ宿屋に着くころには湯豆腐になっていた。




