豪雨の山と路上の宴
塊のような雨粒が、生い茂る樹群の広葉に激突して砕け散る。砕けた雨粒は針のように地面を刺し地中に沁み込む。沁みきれなかった分は山の稜線に沿って颪のように駆け下り、谷底の川の嵩を増す手伝いをしている。
地面は既に腐ってふやけ、今にも土砂崩れが起きそうだ。とても人がいるべき環境ではない。
だが、そんな豪雨の山……アジェル王国の王都と北部貴族領の間に位置する峻嶮【ケリウィズ関山】の道なき道を、息も絶え絶えになって走る人がいた。
雨音以外の音は何一つ聞こえない。足音も、息を吐く音も、転んで痛みに叫ぶ声も、何も。自分の心臓の音も聞こえないので時々生きているのかすら不安になる。左胸を触ろうとしても申し訳程度に着ている蓑が邪魔をする。これを脱いでしまったら間違いなく死ぬ。そもそも感覚を失った手では鼓動も測れないだろう、そう思いなおしてまた走り出す。すでに足は鉄のように強張り曲げ伸ばしも一苦労の有様だ。
「うう…寒い……どこかに休める小屋はねえか」
そんなものはない。自分が一番よくわかっている。この山は関山と言われるように王都と北部を繋ぐ重要な関所の役割を担っている。決められた道以外の通行は許されず、道を外れて通ろうとする場合は決死の覚悟が必要な仕組みになっている。小屋なんてあるはずがない。
「諦めねえ……父さんとチビ共のために、絶対に王都にいかにゃなんねえ」
血の泡を吹き、数歩ごとに転びながらそれでも前に進む。破れた服の隙間から見える背中の焼き印。それは、アジェル王国が公認している【労働奴隷】の証であった。
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「壮観でしたね」
「言うなよ。皮肉にしかならないぞ」
「いつも大体あんな感じ。今回はまだまし。もきゅもきゅ」
「フウラ、お肉ばかり食べてはいけません」
ピクニックさながら、勇者通りの中点にある大広場でセルビア特製の弁当を広げている六人。よく見るとかなり無様な行進を笑いを堪えつつ見送った彼らは、そのまま路上で昼食としゃれこんだ。
「で、結局爺さんもいるじゃん。いいのか、政治家」
「すでに行進は終わっている。お主らがうまい飯を饗している間に書類と金の相手をするのは解せぬからな」
「そうか。んじゃ、ほれ」
適当に酒瓶を拾って、酌をしてやる。なみなみと注いだ後に、そのまま自分のコップにも注いだ。乾杯もせずに同時に呑み始める。
「ぷはあ、うまい酒だな。地面に転がしとくもんじゃねえだろ、これ」
喉に絡みつく刺激は、昼間から飲むには少々きつすぎるかもしれない。お祭りの日だからこそできる贅沢だ。
カルテもゆっくりと味わっている。
篤哉の下にフウラが寄ってきた。木の取り分け皿に種々の肉料理が載せられている。
「あつや。食べて。おいしいよ」
「ありがとう。……こりゃまた、うまいな」
一口に肉と言っても、その種類、料理方法、味は無数にあるのは言うまでもないことだ。未だこの世界の食材を理解していないが、見かける動物や自生している植物の種類を見るに元の世界とそこまで変わらないようだ。竜や鬼は存在しても食用にされていたりなんてことはないらしい。いや、竜肉は一部の地域で食されているらしいが。
ハーブトマトのスープでで煮込んだ鶏肉、厚切りの牛タンにワサビ塩を振りかけて刻み紫蘇を散らした焼肉、玉ねぎと白菜の刻みに塩辛く味付けた豚をこれまた刻んで混ぜたもの(これは米でもパンでもなくふかした芋につけて食べた)。大笠のキノコとタケノコのオーブン焼き(二子焼きと呼ばれていた。双子ではない)のように肉以外の料理も充実している。
「セルビアはどれだけ……これはいわゆる野暮ってやつか」
「うん。余計な心配はせずに一言感想を言うだけでいい。ほら、こっち見てる」
キリカの相手をしながら、時折篤哉の方に目を流している。青みのかかった髪をコンパクトにまとめている。給仕服ではなく、若草色の爽やかな私服姿だ。キリカはベージュの上下服に白い上着を羽織っている。セルビアの方が年上なのだが、同い年と言われても違和感はない。セルビアが幼いというよりキリカが大人びているのだ。
わざわざ近寄って感想を述べるのも押しつけがましいので、鶏肉を一つ口に放って咀嚼する顔を見せることで気持ちを伝えた。十分に伝わったようで、顔が綻んだ。
「こっちも食べて」
「言われずとも。フウラ、勢いよく食うのは良いけど口元くらい綺麗にしとけよ。ほれ」
手巾を取り出して差し出すと、ん、顔を突き出して唇を尖らせる。状況が状況ならいわゆるキス顔だが、状況が状況なので単に拭いてくれという意思表示だ。それはそれで状況が状況だが、知っての通り篤哉は色気に執着しない人間だ。おまけに、少し酔い始めている。
ほれ、と口元をぐりぐりすると少女の柔らかな唇のふくらみと細やかな声を感じた。
「取れた」
「ん。ありがと……あ」
フウラの唇から離れた布は、そのまま篤哉の唇の汚れをぬぐい取っていた。一応裏面を使っているが、少々あれな行為である。フウラは意味もなく綺麗になった自分の唇を人差し指で撫ぜた。
そこへ、バニリスが近寄ってきた。カルテと話していたよな、と見やれば涜職卿は縁石にもたれてうつらうつらしている。意外に酒に弱いのだろうか。
「酒など滅多に飲まれぬお方だ。嫌いなのではなく、飲む暇がないのだ。翌日に響くため寝酒すら……いや、そもそも食事自体をまともに摂取されん」
「なるほどなぁ。そんなハードワーカーが慣れない昼酒にやられた、と」
「ああ。カルテ様には休息という言葉を知ってもらわねばならない。少なくともああして無邪気に眠れるのも貴様のお陰だ。家臣として礼を言う」
家臣。単なる部下ではなく、だ。バニリスが心からカルテを敬い従っていることがわかる。
「休みを知るべきなのはあんたもじゃないのか。俺はここ数日惰眠の連続だったぞ」
「嘘をつけ。お嬢様と庭の手入れをしたり中庭で不思議な稽古をしていたり」
「筒抜けか」
「ああ。カルテ様も喜んでおられる。何よりも働き者を好まれるお方だ」
鋭い目を閉じれば案外好々爺然とした寝顔を眺めながら、二人は語る。フウラは肉を食べながら二人の話を聞いている。
「今日は食え。一切働かなくていい。何せ、明日は……」
そういえば、明日に新しい命令が下される予定だ。バニリスの顔がにわかに引き締まる。
「詳しいことは明日話すがな、貴様とフウラには遠出をしてもらうことになる」
「遠出、王都から出るってことか」
「というより王領そのものから離れることになる。向かうの北だ。明日に話すが、暫く旅に出てもらうだろう」
今のうちに楽しんでおけ、とそういった。そういうバニリス自身が少し寂しいのだ。せっかく気持ちの良い部下ができたのに、すぐさま出張に行ってしまった。篤哉と酌み交わす酒はうまい。再び杯を交わすのは大分先になるだろう。だが、呑気なことを言っていられないほどの問題があるのだ。私兵になって二週間程度の少年を遠地へ送らねばならないほどにだ。
「そうか。じゃ、ほれ」
「む。濁り酒か」
「なんとなくだけどな、一旦の別れに交わす酒は澄んだやつよりどぶろくのほうがあってる気がするんだよ」
「故郷の風習か」
「そういうわけでもないと思うけどな。ただ、地元の村では清酒より濁酒が人気だったな」
清水で体を洗うより山の泥水に塗れて走り回る、男女ともにそれを尊ぶ馬庭の里である。山がちな地形であることも篤哉の粘り腰の形成を助けている。
「故郷が恋しいか」
「どうだろうな。これから旅に出る人間がそんなこと気にするのもおかしいだろ」
「そうだな。……絶対に帰って来い。その時にこの残りを飲もう」
そう言って酒瓶に栓をした。まじめくさった顔に似合わず粋なことを言う。
「大丈夫。あつやはフウラが守るから」
「だそうだ。無事に帰れそうだな」
場の食事も片付き、カルテが目を覚ましたところで出立前夜の宴会は終わりを迎えたのであった。




