#3 フィオとハクレン1
ぼくはローデンを遠ざけ、彼もまた、ぼくの言葉をことごとく尊重した。誰しも踏み込まれたくない部分があり、無意識的にだったとしても、それを踏み荒らしたと思った側は、とても恥ずべきことをしてしまった気になるものだ。それは踏み込まれた側がどう思おうと関係なく、相手が大切にするものを穢してしまったという自分の思いに、きっと、耐えられないのだ。
ローデンがそんなことを考えていたのかは、はっきりしない。しかし、相手の目や貌をじっと見て、そこにある心持ちを汲み取ることのできる、あの優しい男のことを振り返ってみれば、ぼくの気持ちなどすっかり見抜かれてしまっていたに違いないのだ、だから、あながち予想は遠くないのではないかとも思う。
ローデンと交わるきっかけを見失ってしまってからも、ぼくは何度か彼に謝罪しようとした。彼は城をあけることこそ増えたが、同じ廃城で暮らしているのだから、互いの姿を見かけることがないわけではなかった。食堂で、廊下の対岸で、ぼくたちは目が合うこともあった。しかしそのたび、彼に触れようとするぼくの気持ちはたやすく潰えてしまう。
あの晩から、ぼくは何も変わっていないし、ぼくらも何も変わってはいない、解決していないのだ、何も。
ローデンを詰ったあの言葉は、間違いだった、正確には、ローデンに向けるべき言葉ではなかった。一方で、あの言葉は、ぼくの気持ちをなぞったものとしては、間違ってはいなかった。彼がもしぼくの大切にしているものを穢してしまったと思うのであれば、それは、間違いとは言い切れなかったのだ。
傷つけてしまったことに謝罪すべきだ。しかし、そのあと、何も解決していないぼくらが残り、どうするのだろう。そんなことを考えているうちに、いつもローデンの姿を見失ってしまった。
謝罪というものは、時間が経てば言いやすくなるわけではない。昨日言えなかったことには、一日分の後悔が加わる。ぼくは謝る機会を逃し、そのたびに少しずつ謝りにくくしていた。
そのころから、夜になると、ぼくは一人で城壁へ上がることが増えた。なかなか寝付くことのできない日が続いていたから、ぼくは無理やりに体を動かし、疲れさせ、部屋に戻り気絶することを、睡眠に換えていたのだ。
杖なしに歩くことができるようになっても、それでも、怪我をする前のように体を動かすことはできないままだった。訓練に復帰しても、ろくな成績ではなかったし、組み打ちではとっくに周りのものたちに追い越されてしまっていた。
長い石段を上り、息を切らして城壁の縁に手をかけ、ぼくは眼前に広がる暗闇に顔を向けていた。
ここからは、ハクレンの話をしよう。
あの傲慢で、不遜で、世界とぼくを我が物顔で従える、孤独と、寂しさと、親愛なる深き想いを抱く人。後にぼくの心のうちに棲みついた魔女との出会いは、真夜中の城壁だった。あのときのぼくは、きっと、彼女と同じだけの絶望と孤独を覚えていた。
◆
「ひっどい顔じゃのう」
耳元で突然女の声がして、ぼくは危うく城壁から落ちかけた。姿勢を崩し、思わず尻もちをつく。立ち上がって周囲を見たが、誰もいない。城壁の下を覗き込んでみても、やはり人影はひとつもなかった。
「どこを見ておる、私はそんなところにはおらん」
近くから声がする。けれど、どこから聞こえてくるのか、さっぱりとわからなかった。はじめ、ぼくは幽霊の声だろうかと思った。その昔、年かさの戦士が夜まで騒ぐ子供を咎めるために話していた。夜にさまよいだす死者の魂が、人を殺し、殺される、死と縁深いぼくらを、仲間と勘違いして、拐かしにくるのだ──。もっとも、年を重ねるにつれそれがただの方便であることなどわかりきっていた。戦場には死体がいくらでもあったし、野営の際に彼らに話しかけられることなどありはしなかった。死者が喋るのなら、戦場はもっと違う形で騒がしかったはずだ。そう、思うのだが。しかしそれでも、まさか、という思いを拭い切れるものでもなかった。
「幽霊なの?」
「おぬし、その年でそんなものを信じておるのか?」
幽霊ではなかった。
「信じてないけど、ぼくが見ていないだけで、いないと断言できるわけでもないから」
「なんじゃコイツ……私は幽霊などではない……いや、まて、あながちそうとも……」
思わず適当なことを口走ってみたら、向こうも勝手に悩み出してしまった。
「幽霊さん」
「幽霊ではない、多分。ハクレンじゃ」
未だに姿は見えないまま、声が名乗った。名前を知ると、不思議なもので、さっきまでよりも少しだけ恐ろしくなくなった。名前というものは、相手が何者なのか教えてくれるわけではないが、それでも、暗闇の中にそのものの輪郭をおぼろげに浮かび上げることだけはできるようになる。
「ハクレン」
「気安く呼ぶでない」
自分から教えたくせに、とぼくは思った。それから数えきれないほど名前を呼ぶことになる、はじめの一回だった。
「ハクレン。きみ、どこにいるの?」
「だから、気安く呼ぶでない。私はおぬしたちの誰より長くこの廃城におるのじゃぞ。もっとも……誰も私の姿を見ることはできぬが」
「幽霊じゃん!」
「幽霊ではない!」
幽霊だと思った。
「ハクレンの言うとおり、幽霊じゃなかったとしてもさ、幽霊の噂の元ではあるでしょ、絶対に。姿が見えないのに声だけ聞こえるなんて、きっと同じような目にあった奴が、幽霊の噂を流したんだ」
「それは無いな。誰も私の姿を見られぬのだ、声だけ聞こえるなんてこともない」
ハクレンはそう言って、最後に「普通はな」と付け足した。
「──おぬしは、私の声が聞こえているのだな」
耳元で聞こえると思っていた声は、その実、よくよく辿ってみれば、頭の中で声が響くような気がした。ぼくはローデンとの離別に悩むあまり、狂ってしまったのだろうか。そして声は言った、おぬしは、と。
「ぼくにしか、聞こえないの?」
少しの沈黙があった。ぼくはそれを肯定と受け取り、また尋ねた。「どうして?」と。
「道が繋がったからじゃ」
「道?」
「私とおぬしのあいだに、道がある。今までなかったものじゃが、今はある」
思案げに話す声。ハクレンはぼくの知り得ない何かを知っているようだったが、その一方で、何かをうかがい知ろうともしているらしかった。彼女はしばらくなにも言葉を発さず、その間ぼくは、きっとこの声の主に観察されているだろうということだけはわかった。
「よほど、深い場所まで沈んだと見える。そういう人間は、時折妙なところに穴を開けるものよな。──どれ、何があったか話してみよ」
ハクレンは言った。頭の中で響くせいだろうか、それとも、何か大きな存在に見下ろされているような気持ちになった。
「何があったか……って、そんな急に聞かれても」
ぼくは思わず顔をしかめてしまう。こちらを見透かしていそうな相手に、抵抗を覚えないものはいないだろう。ひどい顔といわれ、沈んだと言われ、得体の知れない彼女の、よくわからない答え合わせに付き合う気持ちにはなれなかった。もっとも、そういった気持ちの大部分は、ぼくが城壁まで抱え持ち込んだ気持ちが、自業自得のものであり、それを恥ずかしいものだと考えていた、それを覆い隠すものであった。未だに整理のつかない気持ちをただ迷いながら口ずさむこともまた、とても恥ずかしいことのように思えたのだ。
「あー、よいよい、迷うな迷うな。そんなの時間の無駄じゃ。私はかるーい気持ちで聞いているだけなのじゃ。おぬしが大事にしておることなど、私にはまるで、これっぽっちも関係のないことよ。おぬしがうまく説明できなかろうが、口ごもろうが、どーでもよいのじゃ。なにやら深刻そうな顔をしているが、別に私はおぬしの悩みを肩代わりもせんし、おぬしが何か変わるわけでもない。どーでもいいことなのじゃ。だから、思いつくまま、適当に話せばよいではないか。え?」
気の抜けるようなハクレンの声に、ぼくも思わず気が抜けてしまう。何を言ってるのだ、この声は。本当に、めちゃくちゃだ。
「ほれ、さっさと話せ。子供の悩みほど面白いものはなかろう。ほれ、えーと……あれ、おぬし、名前は?」
「フィオ」
「フィオ!ほれ、話してみよ。どーでもよく聞いてやるから」
◆
ぼくは城壁に背をもたれるように座り込み、ローデンとの日々を、彼との語らいを、その隣に、胸を張って立とうとしたぼくを、滔々とつぶやいた。どうにかしてつけた自信と、驕りを、その果てに得た経験と、怪我と、薄暗い城内の景色を、ローデンがくれた土産話を、ひとつひとつ、つぶやいた。それはけっして誰かの理解を求めるものではなく、ただ過日の思い出をすくいあげ、記憶を蛇行させながら、目についた言葉を繰り続けた。
ハクレンは何も口を挟まなかったが、ずっとそこにいた。ぼくが彼女の不在を疑ったときにだけ、「終わりか? いやいや、まだ何かあるじゃろう」などと楽しそうに笑った。
そんなやりとりがもう何度かあって、やがてぼくの独白は今のぼくに追いついた。ローデンにひどい言葉を向けたことを、あれから、何も解決していないことを。
「それで、おぬしは今も脚が痛むのか?」
長い独り言のあと、ハクレンが最初に興味を示したのはそこだった。ああ、本当にぼくの気持ちなどどうでもよいのだな、とハクレンの言葉に嘘偽りがなかったことに感心した。不意に脚のことを言われ、膝が思い出したように痛み出した。
「けっこうな怪我をしたんだ。病室を出たってすぐにすべてが良くなるわけじゃない」
「ふぅん……。まあよい、おぬしが貧弱なのは見ればわかる。立て」
命令に従う理由はなかった。けれど、ぼくは素直に立ち上がった。たぶん、他にすることがなかったのだ。
「歩け」
ハクレンに言われるまま、ぼくは城壁の上を歩いて見せた。十歩ほど進んだところで、「戻れ」という声がした。またぼくはそれに従い、歩いた道を引き返した。
「ブッサイクな歩き方じゃのう。気品のかけらもない」
ハクレンが何かを言っていたが、ぼくは無視した。それからハクレンは、しばらく何も言わなかった。
「怪我をしたのは右脚じゃな?」
「そうだよ」
「なら、どうして左まで悪くするのじゃ」
ハクレンは、ぼくが右脚に重さをかける前から体を左へ──反対の、見当違いの方向に逃していると言った。右脚を使えば、そこが痛む。だから痛む前に、右半身全体をかばう。かばうから、反対側へ力が逃げる。腰が曲がり、バランスを崩して、間違った体で剣を振ることになる。それを毎日繰り返している。
「おぬしは怪我をした日の歩き方を、ずっと続けているな。まったく、貧弱で軟弱なやつよの。痛みを恐れるあまり、痛む前から逃げておる。ほれ、右へ重さを乗せる前に、逃げるな。もし痛みを感じたら、そこで止まれ」
ぼくはハクレンに言われるままに、もう一度歩いた。右脚を出して、地面につける、身体が左へ逃げようとするが、こらえた、ゆっくりと右脚に体重をかけた。痛みが走ると思ったが、けれど、まだ痛くなかった。右脚の次、左脚を前に出した。そうしてもう一度、右脚を。三歩目で膝の奥が少しだけ痛んだ。
「──止まれ、そう、それでよい」
三歩。たったこれだけのことだったが、久しぶりに正しく地面に立ったような気がした。
ぼくはもう一度歩き出した。城壁の端まで行って戻った。楽しくなって、走った。すぐに膝に鋭い痛みが走った。
「馬鹿者」
ハクレンはそれだけ言って、ぼくの痛みが引くまで、しばらく黙っていた。ぼくは膝を抱えながら笑っていた。やがて痛みが引いてから、ぼくは城壁の縁へ座った。
「ハクレン」
「なんじゃ」
「もしかして、きみは魔女なの?」
ぼくは教団のことを、アルカネムのことを話した。この城の地下には不老不死の魔女がいて、アルカネムはそれを祀っている。姿の見えない女が突然声をかけてきたのだ。その女は、ぼくらの誰よりも長くこの城にいると言うのだ。ぼくが話し終えると、ハクレンは鼻で笑った。
「ハッ、知るか。そんなものではない」
それ以上は何も言わなかった。
夜が明けるまでには、まだ少し時間があった。ぼくは城壁の上で歩行を続けた。そのたびにハクレンはぼくをはやし立て、ぼくの失敗をことごとくあげつらった。
遠くの空がわずかに白んだ頃には、ぼくの歩みは「ブサイクで、醜悪で、見る側が恥ずかしくて、役者が貧弱な男を演じる時にはぜひ参考にしてほしい歩き方」から「憐れな亀」になった。
ハクレンはずっとぼくのそばにいた。ぼくは彼女に、どうしてここまで付き合うのかと尋ねてみた。
「暇潰しじゃ」
ハクレンが答えたのはそれだけだった。ぼくはしばらく、それを信じていた。
今、振り返ってみて思う。暇というものが、どれほど長く続けば、見ず知らずの少年が、まともに歩けるようになるまで、付き合うようになるのだろうか。
◆
目を覚ますと、自室の寝台の上にいた。服も靴もそのまま、倒れ込んでいたらしく、どうやって部屋まで戻ってきたのかは覚えていない。窓からは、すっかり高いところまで登った陽の光が差し込んでいた。
ぼくは寝台を抜け出し、右脚を床につけた。少し歩いてみると、しっかりと地を踏む感覚があり、そのあと、少しの痛みを感じた。
真夜中の城壁で、姿の見えない女と話した。そいつはハクレンと名乗り、どうでもいいと言いながらぼくの心の内を引きずり出し、踏み荒らし、勝手放題を尽くし、ぼくの歩き方を見ては散々罵倒した。改めて考えると、ずいぶんと得体の知れない、夢を見ていたかのような話だった。
「寝ても覚めてもブサイクじゃのう」
夢じゃなかった。
頭の中で声がした。ぼくがしばらく黙っていると、「聞こえているのはわかっておるぞ」と言う声がした。
「夢じゃなかった」
「ククク、幽霊でもないぞ」
明るい陽射しの差し込む部屋で、ハクレンの声が楽しそうに笑った。その日から、ぼくの暮らしにはハクレンの声が混ざるようになった。
たとえば、食堂で食事をしていれば、突然、「うまいか?」と尋ねられる。「普通」と答えれば、
──普通!普通ときた!味覚まで貧しいやつじゃのう……ちゃんと味のわかる人間であれば、もっとはっきり答えるものだろうに。不味いとも美味いとも言えぬとは」
と怒られる。
ハクレンはもうずっと長いこと食事をしていないらしかった。廃城にいながら、誰にも姿は見えず、何にも触れることはできない。しかしどうやら、壁や扉などお構いなしにすり抜けて廃城の中をうろつきまわることはできるらしい。そんな彼女が唯一できるのは、ぼくに声をかけることだけだった。
「なに、食事ができなくて、それでぼくを僻んでるわけ? それとも、この料理を食べたくて言ってる?」
「ハッ、そんな貧相な食事など、私には似合わんじゃろ。もっと味に手仕事をかけ、繊細な盛り付けをして、香り豊かな茶もあわせて用意をして、やっと釣り合いがとれるかどうか」
「あーっそ」
ぼくは豆のスープを流し込んだ。
食事についてはうるさいハクレンだったが、剣の扱いについては何も知らなかった。
「知らんわ。ふん、棒切れを振り回す作法など、私が知ってどうする」
訓練中、ぼくの体の使い方がなっていないと散々叱りつけてきたハクレンに、剣の使い方を尋ねてみたところ、そんな言葉が返ってきた。
「散々人の動きに文句をつけておいて? じゃあ今までのはなんだったのさ! まさか、正解もわからないのに、好き勝手言ってたの?」
「阿呆。そんなもの関係なしに、おぬしの身体がブサイクだからじゃ」
「そんなことがわかるの?」
「わかるとも」
自信ありげな声。ぼくはどうにも納得いかなかったが、彼女の自信を否定することまではできなかった。ハクレンの言うことは、妙に正しかったからだ。
訓練場で剣を振っていると、時折、「──おい、今」とハクレンに声をかけられた。
「身体が崩れたの。もう一度やれ」
「そうかなあ?」
剣を構え直し、振る。
「ほれ、今じゃ」
「わからないって」
「自分の身体じゃろうが!」
そんなやりとりを何度も繰り返しているうちに、やがてぼくはハクレンが見ていたものに気付けるようになった。剣を振り下ろす直前、わずかに右脚に重さが乗るより早く、ぼくの腰がほんの少し左側へ逃げていた。あの城壁の上で罵倒されながら歩いたときと同じだ。
わずかな違和感でも、意識することができれば、どうにか時間をかけて解決することができる。剣を振る、またやり直す、剣を振る、やり直す、剣を振る。何度かに一度、ハクレンに何も言われないことがあった。
「ねえ、今のはどうだった?」
「何がじゃ」
「身体。崩れてなかったよね?」
「おお、そうかもな。当たり前のことだから、気にもとめなかったわ」
「ふふん」
「おおー、余裕じゃのうー。たまーに当たり前のことができるだけで、もう全ての悩み事が解決したような顔をしておる。はよう剣を振れ」
「はいはい」
そうしているうちに、やがて、右脚に体重を乗せるということを、いちいち考えなくてもよくなっていった。
組み打ちの訓練で、ぼくは久しぶりに同じ年頃の戦士を一人、地面に転がした。何度かの打ち合いのあと、胸元を掴まれて押されたが、ぼくの身体は逃げなかった。相手の力を受け止めたまま腰に力を入れて、右脚を軸にしていなす。不意に手応えがなくなり、気づけば相手は地面に倒れ、ぼくだけが立っていた。
相手は目を丸くしてぼくを見ていた。ぼくは大きく肩で息をしながら、もう一回やる?と尋ねた。結局その後は続けて負けてしまったが、ぼくが一度は相手を転がしたという事実は残った。ぼくはハクレンにそのことを話した。
「三回やって、一回勝ったぞ」
「弱いのう」
「前は三回とも負けてたんだよ」
「弱っちいのう」
「もういいよ!」
ハクレンは、ぼくがどんな場所にいようが構わず話しかけてきた。たとえばあれは、服を脱いでいる時だった。
「ところでフィオよ」
「うわっ!」
訓練で汚れた上衣を脱ごうとしていたぼくは、驚いて腕を引っ掛けてしまった。
「なんじゃ、急に大声を出して」
「なんじゃ、じゃないよ。なんで今話しかけるのさ。ぼく、着替えてるんだけど」
「見ればわかる」
「見えてるの?」
「見えておるが」
ぼくはなんだか気恥ずかしくなり、脱ぎかけの上衣をまた元に戻した。
「見ないでよ……というか、出てってよ」
「なんじゃコイツ……子供のくせに、いっちょまえに……」
ハクレンの悪態のあと、やがて何も聞こえなくなった。しかしぼくは、ハクレンが素直にいなくなるとも思えなかった。声がしなくなっただけで、そもそもどこにいるのかすらもわからないのだ。
その日は毛布をかぶって着替えた。ひどくやりにくかった。何日か経つと、ぼくは諦めて、毛布を使わなくなった。
「おい、今日は毛布はよいのか?」
ハクレンの声がした。
夜も、ハクレンはよく喋った。ぼくが寝台に入ってからも、昼間に見かけた戦士の歩き方がどうだったとか、食堂で誰かが食べていたものは何だったのかとか、あの城壁に使われている石はずっと昔は綺麗な緑色をしていたとか、どうでもいい話をした。ぼくも、どうでもいいことを話した。訓練で走り込む距離を増やしたこと、剣を落としてしまったこと、今日のスープには芋が入っていたこと、廊下でローデンと目が合ったこと。
「おぬしが話したがっているやつじゃな。話せたのか?」
「話せてない」
「そうか」
ハクレンはそれ以上何も言わなかった。
その翌朝、ぼくは呼び出された。
大きな戦ではないが、ヴェルグから何名かの戦士を送り、先行している部隊と合流する。その名簿の中に、ぼくの名前があったのだ。
前線へ戻れる──そう思ったとき、最初に見たのは自分の右脚だった。それからぼくは自分の身体を、その具合をひとつずつ丁寧に確かめた。
夜、寝台に入ってからハクレンに話した。
「明日、任務に出ることになったんだ」
「そうか」
「前線に出るなんて、久しぶりだよ」
「うむ、期待しておるぞー」
「わあ、うれしいなあ」
ハクレンはそれきり何も言わなかった。ぼくも、明日の支度を考えているうちに眠った。
朝になり、ぼくは他の戦士たちと城門を出た。久しぶりに歩く城外の道は、深夜に降った雨の跡が残っていた。浅い水溜まりを踏み、泥がぼくの靴についた。
「ハクレン」
しばらく歩いてから、その名を呼ぶ。返事はなかった。ぼくはそのまま歩き続けて、何歩か進んでから、もう一度呼んだ。
「ハクレン?」
返事はなかった。昨日まで、呼んでもいないのに喋っていたのに。ぼくは足を止めて、振り返った。少し離れたところで、ヴェルグの廃城が小さく見えた。




