#2 フィオとローデン2
ぼくは朝の鐘が鳴るより前に寝床を抜け出し、まだ暗い訓練場へと向かった。初陣が終わってから、今までよりも早い時間に起きるようになった。やがて城壁の向こうから朝日が顔を出すころには、もう何周か城のまわりを走り終えている。皆が起きてくれば一緒に走り、昼には剣を振った。夕食を食べたあとにも、腕が上がるうちは木剣を握った。
これまで見てきたように、ローデンと同じだけやって、それでも足りなければ、もう少しやる。考えていたのは、そればかりだった。
「フィオ」
ある朝、城壁沿いを走っていると、後ろから名前を呼ばれた。よく知っている声だった。やがてぼくの隣にローデンが並んだ。
「最近、やけに起きるのが早いと思ったんだ」
横を走りながら、ローデンが言う。
「俺に隠れて練習か? おまえ、昨日も夜まで剣を振ってただろう」
「見てたの?」
「偶然な」
「そっか。次は見えないところでやるよ」
「なあおい、そういう話じゃない」
ローデンは呆れたように言った。
「無理に詰め込んだってどうにもならないぞ」
「わかってるよ。疲れたら休むようにする」
「おまえ、疲れててもやるだろ」
「大丈夫、やらないよ」
「やるよ」
「何でそう言えるんだよ」
「フィオだから」
そう言われて、ぼくは少し考えた。その様子にローデンが笑い、ぼくも笑った。それからぼくは、少しだけ走る速度を上げた。ローデンも何も言わずについてきた。
そんな日々がしばらく続くと、ぼくの身体は少しずつ、よく動くようになった。長く走っても、前ほどすぐには息が切れなくなったし、木剣を振る腕も、少しだけ長く上がっていられるようになった。組討ちでは相変わらずローデンに転がされたが、それまで一度も勝てなかった相手から一本を取れることもあった。昨日できなかったことが、今日はできている。努力というものがちゃんと身体の中に残るのならば、続けていればいつかローデンにも追いつけるはずだ、とぼくは自分に言い聞かせていた。
それから、また何度か戦場へ出た。二度目は、最初よりいくぶんかましだった。三度目は、また、もう少しましだった。角笛が鳴っても足は動いたし、剣を持った敵がこちらへ走ってきても、身体が固まることはなくなった。まわりの地形も分かったし、今ぼくが戦場のどこにいるのかも理解できた。それだけで、ぼくは自分がいっぱしの戦士になったような気がした。そばで人が死ぬことにも、少しずつ驚かなくなった。はじめの戦場では、倒れている人間を見るたびに足が止まりそうになったものだった。それが何度か戦場へ出るうちに、地によこたわる身体を踏み越えて歩けるようになった。血の匂いがしても、次に何をすればいいのか考えられるようになった。それを強くなったというのだと、あのころのぼくは思っていた。今でも、それがまったく間違っていたとは思わない。ただ、人間はいろいろなものに慣れることができる生き物でもあった。それを知ったのは、もう少し後のことだった。
ある戦場では、初めて人を助けることができた。ぼくらの隊列が崩れかけたとき、一人の仲間が足を斬られて倒れた。そして敵方の兵士がそいつへ向かってくるのが見えたとき、考えるよりも先に身体が動いていた。ぼくはとっさに敵の剣を受けた。重かった。けれど、ぼくは押し負けずにこらえた。相手の肩を見る、間合いを見る、相手がもう一度振りかぶるより先に踏み込み、剣を振った。敵兵が倒れたのを確認したあと、ぼくは倒れた仲間に駆け寄った。
「立てる?」
「ああ、すまない……」
「いいんだ。よし、行こう!」
男の腕を肩に回し、意気込んで立ち上がってみると、それは思っていたよりもずっと重かった。人間というのは、普段、自分の足で歩いているところを見てもそんなことは考えないが、実際にはずいぶんと重たいものだ。ぼくは男を半ば引きずるようにして歩いた。人を殺すのには、それほど時間がかからなかった。人を一人連れて帰る方が、よほど大変だった。そうやって二人で陣まで戻った。
その日の帰り道、ローデンがぼくの背中を叩いた。
「あいたっ!」
ぼくの悲鳴に気をよくしたローデンは、思い切りよく、何度もぼくの背中を叩いた。
「仲間を助けたこと、褒めてやろう」
そう言って、彼はぼくの前にきて満足げな笑顔を見せた。ぼくは背中に走る痛みと対照的なその表情に、思わず顔をしかめてしまった。
「ああ、光栄だね……ありがとう。でも、人を褒めるたびに殴っていたら、そのうち誰も褒められたがらなくなると思うよ?」
「そうかな? なら、おまえだけ特別」
「ぼくはねえ、気持ちは声に出してもらえばわかるタイプなんだよ」
「あそ、やるじゃん」
「……それだけ?」
「? 何て言ってほしいんだよ」
「別に……」
そう答えたけれど、正直に言えば、とても嬉しかった。初陣の日、ぼくはローデンに命を助けられた。そんなぼくが、今度は誰かを助けたのだ。助けられるばかりだった側から、助ける側へ移ったことで、その分だけローデンにも近づいたように思えた。できなかったことも、続けていれば、いつかはできるようになる。歩みを止めなければ、いつかは行きたいところまで辿り着ける。ぼくはそういうことを、疑っていなかった。
怪我をしたのは、それからしばらく経ったころだった。
◆
その日は、小領主同士の争いに雇われ、森に沿った街道で戦っていた。大きな戦ではなかった。いくらかの傭兵がヴェルグから送り込まれ、その中でぼくらの隊は、前線を迂回して浸透しようとする敵が、雇い主の本陣に到達しないよう、街道の脇を押さえる役目だった。戦いはこちらが押していた。敵の列が崩れて、少しずつ後ろへ退き始めた頃だった。
「深追いするな!」と、隊を率いる男が言った。
「あいつらが通って来た道は、他の連中が今ごろ潰している。俺たちは、ここを抜かれなきゃいい。逃げる奴は放っておけ」
ぼくは頷いた。そのころには、命令を聞く余裕くらいはできていた。やがて二人ほどが敵の塊から離れた。彼らはぼくらから逃げるように、しかし街道を引き返すでなく、近くの森の方へ向かって走っているらしかった。その先には、古い小道があった。森を抜けて、敵側の別の街道へもかろうじて続いている道だ。ぼくはそれを古い地図で見たことがあった。
ぼくは二人を見て、逃げる敵の背中ばかりを見るな、と昔から何度も聞かされた言葉を思い出した。あの二人がただ逃げているだけなら、追う必要はない。けれど、逃亡兵ではないのだとしたら? 森の先にあるあの小道に辿り着かれたら、再び敵の本隊と合流し、仲間を呼ばれるかもしれない。そのまま仲間をつれ、森を引き返す形で、こちらの横へ回ることだってできるはずだ。
以前にも、似たようなことがあった。ある戦場でローデンは、逃げると見せかけた敵が、傭兵団を迂回して背中を取ろうとしていることにいち早く気づいた。彼は敵の狙いを阻止するために、独断で持ち場を離れた。それからたった一人で敵を咎め、足止めすると、ローデンに続いて合流した仲間たちによって、迂回しようとした敵たちは打ち破られた。その後、ローデンはこっぴどく教官に怒られていた。
──持ち場を離れるなと言ったはずだ!」
──わかってる。でも、ああしなきゃ敵に後ろ取られてた!」
──結果の話をしてるんじゃあない」
──じゃあ、抜かせればよかったのかよ」
──そういう話でもない!」
結局、ローデンは教官に殴られていた。けれど、彼の判断が間違っていたとは、誰も言わなかった。ぼくはもう一度、森へ向かう二人を見た。あたりではまだ、あちこちで剣がぶつかり合っていた。ぼくが誰かを呼び止め、事情を話しているうちに、あいつらは森へ入ってしまうだろう。そう思ったときには、ぼくは走り出していた。
森にさしかかるところで、二人のうち一番後ろを走っていた男に追いついた。こちらに気づいた男が振り返り、刃を振るった。ぼくはそれを躱して、体勢を崩した相手の胴に、ぐっと持っていた剣を押し込んだ。男はうめき声をあげて倒れた。顔を上げると、残る一人は森の奥へと入っていくところだった。逃げる男の背中が、木々のあいだに見えていた。
急いで追いつかなければいけない、その一心で森へ入ったぼくは、けっして見逃すまいと、相手の背中ばかりをよく見ていた。やがて男との距離は少しずつ縮まっていった。追いつける、そう思ったときに、前を走る男が何度か前方を見た。何かを叫んだようにも見えたが、ぼくにはよく聞き取れなかった。そのうちに、男は急に足を止め、こちらを振り返った。その顔は、追いつかれた人間の顔ではなかった。
男の向こうで何かが動いた。新たな人影が現れる。それも、一人ではなかった。泥にまみれた者もいれば、兜をなくしている者もいた。腕を押さえている者もいた。後に知ったことだが、彼らもまた、別の場所でヴェルグに退路を塞がれ、森へ逃げ込んだ敵方の兵たちだった。男は、逃げた先で運よく仲間に出会ったのだ。
ぼくは足を止めたが、遅かった。横から何か強い衝撃を受けて、天地がひっくり返った。起き上がろうとしたが、右脚に力が入らなかった。息を吸うと、胸の奥が痛んだ。いつの間にか手放してしまった剣を急いで探したが、少し離れたところに落ちていることだけが、かろうじてわかるくらいだった。
「こいつ、エルンを殺しやがった!」
ここまで、ぼくに追い立てられていた男がそう叫ぶと、まわりの兵士たちがざわめいた。よせ、という声がしたような気もした。ぼくは地面に横たわり、うめくことしかできなかった。「そいつ一人くらい、やっちまおう」という声がした。
すると、不意に誰かの怒鳴り声がした。ヴェルグの仲間たちだった。何人かが森へ飛び込んできて、敵とぶつかった。あたりは乱戦の様相を呈し、やがて、ぼくは男の腕で引きずり起こされた。
「この……馬鹿野郎!」
怒鳴られた。
「どうして一人で森に入った!」
敵を逃してはいけないと思ったからだ。仲間を呼んでいる時間もなかった。けれど、真新しい傷のついた男の腕を見ていると、それを口にすることはできなかった。ぼくのまわりで剣のぶつかる音がしていた。誰かが怒鳴っていた。ぼくを支えている男の腕から、血がしたたり落ちていた。それを見ていたところまでは覚えている。
◆
次にまともに目を覚ましたとき、ぼくはうすぐらい大部屋で横たわっていた。胸には布がきつく巻かれていて、右脚は木の板で固定されていた。身体を少し動かしただけで、脇腹から背中まで痛んだ。
「起きたか」と、寝台の横にいた髭面の男が言った。彼はヴェルグ傭兵団が雇っていた医者だった。あまりしゃべりたがらず、淡々と仕事をする男だった。ぼくも訓練で怪我をすることが多かったから、その顔は何度も見覚えがあった。面倒くさそうな顔をして、最低限の手当てだけすると「さっさと出ていけ」とよく言われたものだった。彼がいるということは、ここはヴェルグの廃城だ。しかし、ぼくには廃城へ戻ってきたときの記憶はない。
「ぼくは、どれくらい寝ていたの?」
「三日だ」
「……そんなに?」
喉がひどく乾いていた。
「ぼくの脚は……」
「折れている」
「ああ、くそ……。ねえ、いつ治る?」
「知らん」
「すぐに治りそう?」
「だから知らん。くっつくのを待て」
医者はそれきりぼくから興味を失ったのか、立ち上がり、薬品棚に向かっていった。こちらに完全に背中を向け、何か作業に没頭しはじめた。ぼくは天井を仰いだ。それから、戦のことを思い出した。「戦いは?」とぼくは医者の背に向かって言葉を投げる。すると、「勝ったようだ」とだけ返ってきた。
「誰か、死んだ?」
「おまえを拾いに行った連中が二人、怪我をした」
「……死んだ?」
「死んじゃいないが、少しばかり手当をしてやった」
血のしたたる男の腕を思い出しながら、その説明にぼくはひとまず安堵した。それから、もっと惨めになった。
ローデンがやって来たのは、ぼくが目を覚ましたその日の夕方だった。
「フィオ、起きてるか?」
「……うん」
彼はぼくがいる寝台の脇へ、椅子を持ってきて座った。「脚の具合は?」とローデンが尋ねる。
「見ての通り、折れてる」
「痛むのかって聞いてるんだよ」
「痛いに決まってるだろ」
それからしばらく、ローデンは黙ったままだった。沈黙に堪えきれず、ぼくは「失敗した」と口を開いた。ぼくの言葉に、ローデンは「そうだな」と言って頷いた。
「──ざっと、話は聞いて来た……おまえが敵を追ったことは、間違っていない。逃したら面倒なことになったと思う。別の街道に出られたら、他の仲間に状況を伝えて、こっちへ回ってくるかもしれない。そこに気づいたのは、おまえだけだった。だから、そこまではおまえが正しい」
ローデンが言って、ぼくは彼を見た。
「ぼくは、どうするべきだったんだろう?」
「……おまえは、間に合わなかった。俺なら、森に入る前にもう一人も斬る」
「それは……、ローデンだからできることだ」
「ああ、そうだな」
あっさり言われて、少し腹が立った。
「じゃあ、ぼくにはどうしようもないじゃないか」
「そうだ。追いつけないって分かったんなら、俺ならそこから先は追わない」
「でも、そうしたら敵を見逃すことになる。それじゃあ駄目じゃないか」
「どうして?」
「……仲間を呼ばれるかもしれない。そして、横から回ってくるかもしれない」
「だったら戻って、森へ入った奴がいることや、その先の小道の話を隊長に言うさ。逃げたやつがこっちに回ってくるかもしれないなら、そのつもりで構えていればいい」
「でも、そのあいだに何をしてくるかわからない」
「だから、一人で追うなって話になるんだ。他の場所でも戦いは起きていたんだ。逃げ道を潰されて、よそから森へ逃げる奴がいるかもしれない。そうでなくたって、他の敵の隊列がひそんでいるかもしれない。そんなのは……そりゃ全部はわからないけどさ。わからないってことが、肝心なんだ」
少しローデンの声が強くなった。
「追いつけるなら追えばいい。駄目なら戻ればいい。森に入ってからだって、思ったより時間がかかったなら、そこは引くということもできた」
「そんなこと言ったって!」
たまらず、ぼくは声をあげた。ローデンはまっすぐこちらを見たまま「何だよ」と返した。
「……そのときは、追いつけると思ったんだよ」
「だろうな」
淡々と返すローデンの反応が、ぼくを苛立たせた。
「もう少し走れば追いつけたかもしれない。あそこで戻ったら、ずっと何もできないままじゃないか!」
「馬鹿。そんなの、戦場で試すことじゃないだろ」
「戦場でしか試せないこともあるだろ!」
「知るか。おれは、おまえに死んでほしくないだけだよ」
ぼくは黙った。ローデンも黙ったまま、ぼくをじっと見ていた。
「……おまえ、最近ずっとそんな感じだぜ。朝から走って、昼も訓練して、夜まで剣振ってる」
「今回の話とは関係ないだろ」
「いや、あるはずだ。できないと思ったら、できるまでやる。止めてもやる。今の自分ができることよりも、少し上にいこうとする。今回だって同じじゃんか」
「……ぼくの判断だって、正しかったんだろ」
「できないかもしれないことをやろうとしたのが悪いんじゃない。できないって分かったあとも、やめなかっただろ」
ローデンは少し俯いた。
「できないことなんて、誰にもあるだろ。俺にだってある」
「どうかな。ローデンなら、うまくやれるんじゃないか」
「何が」
「あのときだって、ローデンなら追いつけたんだろ」
「だから、それは!」
ローデンがこの日はじめて声を荒げた。それから、自分の声量に驚いたように口を閉じた。
「……もしかして、俺の真似をしたのか?」
小さな声で尋ねられた。ぼくは答えなかった。けれど、それで十分だったらしい。ローデンは頭を掻いた。それから、また口を開く。
「おれだって、できなかったときのことくらい考えてたさ。ここまでやれなきゃ戻るとか、人を呼ぶとか、諦めるとか」
「諦めたら、できるようにならないだろ」
「そういう話がしたいんじゃない」
「ならどういう話をしたいんだよ」
ローデンは困ったような顔をして、しばらくして、息を吐いた。
「頼むから……もうちょっと、自分の身体のことを考えてくれよ。朝から晩まで、自分を追い込まなくたっていいだろ。俺より走らなくても、剣が下手でも、別にいいじゃんか」
「おまえはそう思うのかもしれない。けど、ぼくにはよくない」
「そうじゃなくて……ああ、くそ」
ローデンは何かを言いかけてやめた。
「とにかく、今は寝てろ……また、様子を見に来るから」
そう言ってローデンは立ち上がった。ぼくは「うん」とだけ返事をした。扉が閉まったあとも、ぼくは長いこと天井を見ていた。
◆
脚の怪我が治るまでには、ずいぶん時間がかかった。
怪我をしてからも、ぼくの身体は朝の鐘が鳴るより前に目を覚ました。しかし、目を覚ましても、何もできることはなかった。以前ならば、寝床を抜け出して、まだ暗い訓練場へ向かった。今は一人で寝台から降りることもできない。そのまま横になっていると、やがて朝の鐘が鳴った。しばらくして、廊下を大勢の足音が通り過ぎていった。訓練へ向かう連中だった。
最初のうちは、一人で身体を起こすこともできなかった。寝返りを打てば胸が痛んだ。やがて寝台の縁に座れるようになり、折れていない方の脚を床につけ、何かにつかまれば立てるようになった。怪我をするまで、立つことに上手いも下手もあるとは思わなかったが、それは歩くことも同じだった。医者から杖を渡され、初めて窓まで歩いた日は、それだけで息が上がった。かつては城のまわりを何周も走れたのに、寝台から窓まではずいぶんと遠く感じたものだ。
窓の外では、皆が木剣を振っていた。教官の怒鳴り声が聞こえ、誰かが転ばされて、何人かが笑った。ぼくがいなくても、訓練はいつも通り進んでいた。
そのころ、ローデンは以前より城にいないことが増えていた。怪我をする前から、年上の戦士たちに混じって任務へ出ることは多かったが、ぼくが寝台で過ごしているあいだにも、それはさらに増えていた。
それでもローデンは、廃城にいるときには、たいてい何か差し入れをもってぼくの見舞いに来た。たとえばあるときは、妙な木の実を持ってやってきた。丸くて、表面に細かな棘が生えていた。
「よう、出かけた先の村で売ってたんだ。これ、割って中身を食うらしい。俺は食ってないけど、どうだ?」
「自分で食べてもいないものを怪我人に持ってくるなよ。まず、おまえが食べて、明日も生きてたならぼくも食べる」
「見舞いに来た奴に毒見までさせるのかよ。え?」
「食べ物かどうかもわからないものを、見舞いに持ってくるのかよ?」
「店で売ってたんだぜ、多分、死にはしないだろ」
結局、ぼくらはどちらも食べなかった。ローデンが木の実を窓際へ置いたとき、その腕に、少し大きな、見覚えのない傷があることに気づいた。ローデンもぼくの視線に気づいて、なんてことない顔で「これか?」と言った。
それは廃城から西へ遠征に行った先の、壮絶な渡河戦で刻まれたものだった。大きな川を挟んで睨み合う諸領があり、ある領主が自前の兵士たちの代わりにヴェルグ傭兵団を雇い入れた。ヴェルグの面々が川の上流を渡り、敵を引きつける。敵がそちらへ兵を割いたところで、その隙に領主軍の率いる本隊が下流から渡河する手はずとなっていた。後に聞いたところでは、この領主がとんだ食わせ物だった。ヴェルグが対岸に陣取った後、狼煙を合図として領主の軍が攻撃を開始する、つまりは、引きつけた敵軍の攻撃を一定時間耐えれば、本隊が動くという約束であった。しかしいつまで経っても領主軍の援軍は来ない。領主はヴェルグたちが死にものぐるいで戦い、敵が消耗したところで、悠々と合流しようとしていたのだ。これはヴェルグとの事前の取り決めとは全く異なる、裏切りだった。
裏切りに気づいたとて、ヴェルグ傭兵団にとれる行動はそう多くなかった。川を引き返すことも難しく、いつまでもそこで耐え続けることもできない。そんな状況で、先陣を切ってうって出たのがローデンだった。この戦場において、ローデンは武勇の限りを尽くし、戦果を欲しいままにした。彼は隊長の前に出て、ただ自由にやらせてくれ、と頼んだだけだ。それからローデンは、馬上の敵を、厚い鎧の敵を、飾りのついた天幕を、狙って動き続けた。敵兵の誰も、ローデンを止めることはできず、ローデンが動くたびに、敵軍の要所で被害が出た。一方で、この男を討ち倒したとて、敵からすればただ傭兵が一人戦場から消えるだけ。ローデンはたった一人で敵軍に戦の割に合わないと思わせたのだ。
敵の進撃が弱まったころ、それを好機とみた雇い主の部隊もようやく下流から合流し、損傷した敵軍を蹴散らして、戦は勝利に終わった。
それからの雇い主の領主の態度は、ヴェルグの怒りに火をくべるには十分すぎるものだった。結果的に勝ったのだからよいだろうと、報酬に多少の色はつけておくと領主は語ったが、それも決してヴェルグの負担に見合うものではなかった。語る領主の前に、ローデンが静かに歩いた。
──どうやら、おれたちはあんたのお眼鏡に叶うはたらきはできなかったらしいな。いや、しかたない、おれたちは傭兵だからな、ほかの雇い主を探すことにする。しかし、今回の仕事は金とは別、じつに得るものの多い内容だった。俺の名も、このあたりじゃ多少広まったことだろう。ああ、俺がどういう「いきさつ」で名を広めることになったのかも、よく話す練習でもしておくべきかな。
ローデンは血が滲む包帯だらけの身体で、静かにそう言った。実を言えばそれは、先の戦いが終わった後、ヴェルグの傭兵たちを率いる隊長と事前に練っていた口上だった。金だけもらって帰るのでは駄目だと主張するローデンに、それを面白がった隊長はローデンに、様々な「演出」を仕込んだ。台詞は物書きを目指していた男が考え、また誰かは、花をすりつぶして赤く色をつけた包帯を余計にローデンに巻きつけた。しかしそういった仕込みを差し引いても、ローデンは実に堂々たる様で領主の前に立っていたものだった。そこへきて領主はようやく、自らの評判もまた、傭兵たちの口に預けられていることに気づいた。最終的には領主は折れて、当初の報酬を大幅に上回る金をヴェルグに支払うこととなった。
ローデン自身はあまりこのような話をぼくには明かさなかった。それはきっと、戦に出れないぼくへの配慮だったのだろう。だいたいにおいて、ぼくはこういった話を他の仲間たちから聞かされることになった。
代わりにローデンは見舞いに来るたび、ぼくの知らない土地の名前や景色の話を一つか二つ持ってくるようになった。墓が一つだけ立っている、小高い丘。少し前に廃城のまわりにいた鳥たちがずっと西の沼地に集まっていたこと。古の壁画で埋め尽くされた、人ひとりがようやく入れるほどの洞窟。郊外で果樹を育てる老夫婦。それらは決して寝台の上で地図を眺めてみても知ることのできないものだった。そんな彼の話に、ぼくが返せることはたいしてなかった。ようやく一人で立てたこと、杖を使えば部屋の外まで行けたこと。以前なら話題にもならなかったことが、怪我人になると一日の出来事になる。ローデンはそれをじっと聞いていた。
◆
医者から、そろそろ杖を使わずに歩いてみろと言われたのは、それからしばらく経ったころだった。それを聞いたぼくは、ようやくという気持ちと、もう?という気持ちがないまぜになった。自分ではもっと時間がかかると思っていたからだ。しかし医者が言うのだから何かしらの見込みがあるのだろう。寝台の枠に掴まって立ち、医者の前でさっそく歩き始める。一歩、二歩、と進んだところで右脚が震えた。三歩目で慌てて壁に手をついて、そのまま動けなくなった。もうしばらくは杖を使いたいな、と医者を見ると、すでに杖は回収されてしまっていた。そして医者はぼくに一言「退院おめでとう」と言った。
実のところ傷病者用の杖や寝台は限られていたから、ある程度のところで他へまわしたいということだったのだろう。仕方がないので、ぼくは元々暮らしていた部屋へ戻り、そこで杖無しでの歩行訓練を開始した。三歩が五歩に、五歩が十歩に、壁に手をつけば部屋を一周できるようになった。
ローデンが再び見舞いにやってきたのは、ぼくが杖なしで、また壁も伝わずに、寝台から離れた窓まで歩けるようになった頃だった。北方へ向けた長い任務から帰還した彼は、窓枠のそばで杖無しに立つぼく見るなり、声をあげた。
「すげえじゃん!」
大げさに言ったわけではなさそうだった。本当にそう思っている顔だった。
ローデンは今度の任務では、途中から十人ほどの面倒をまかされたらしい。正式に隊を率いる立場になったわけではなかったが、戦いの最中に「こいつらを連れて行け」と言われ、そのまま敵の側面へ回らされたのだという。「十人も?」とぼくは尋ねた。ローデンは神妙な面持ちで頷く。
「ああ、俺も驚いた。後ろを見たら、本当に十人ついてくるんだぜ? 途中で二人くらい脱走してくれないかなと思った」
「減ったら駄目だろ」
「勝手に死なれたら俺が怒られるだろ。それなら、最初から少ない方がまだマシさ」
ローデンは笑っていた。お互いに、それまでできなかったことができるようになったという点では同じだったが、当然ぼくには、ずいぶん違って見えた。
それからぼくは一人で歩ける距離を伸ばし、やがて中庭まで行けるようになったところで、再び木剣を握った。身体は以前のようには動かなかった。走れば折れた脚は遅れがちになるし、踏み込むと鈍い痛みが走った。組み打ちをすれば、それまでなら耐えられたところで身体が崩れた。身体というものはできるようになるのにはずいぶん時間がかかるくせに、できなくなるときには呆れるほど早いものだった。
そのころから、ローデンが見舞いに来るのを待ちながら、来てほしくないと思う日が増えていった。部屋の外の廊下を足音が通るたびに、ぼくは扉に身構えてしまった。嫌いな相手に会いたくないのは、何も不思議なことではないけれど、好きな相手にだって会いたくない日があるものだ。その日も扉が開いて、ローデンが部屋の中へ入ってきた。彼は食堂から持ってきたと言って、大きなパンを2つ持っていた。
「もうすぐ隊列に戻れるんじゃないか?」
パンを食べながらローデンは言った。ぼくもパンをちぎりながら、「なんとかね」と返す。
「ローデンは、次はどこへ行くのさ」
「まだ決まってないな。東の方で人を集めてるって話はあるけど、俺が行くかはわからない。しばらくはここにいるかもな」
「ふうん……そうなんだ」
「なんだよ、そっちから聞いておいて。いてほしくないみたいだな」
「うん」
それはローデンにしてみれば冗談だったのだと思う。ぼくも、返事をしてから少し驚いてしまった。ローデンは目を丸くしてこちらを見ていた。それからしばらくして、椅子に深く座り直した。
「──何だよ、それ。俺、なにかしたか?」
「してないよ。何もしてないから困るんだよ」
自分でも、何を言っているのかよくわからなかった。ローデンは何度も見舞いに来てくれたし、今日はこうしてパンも持ってきた。前は食えるかどうかもわからない木の実を持ってきた。ぼくが立てば、それを自分のことのように喜んだ。歩けば、その倍も。
だから、ローデンの方に直してもらえるところは何もなかった。
「おまえを見ていると、ぼくがどれだけ弱いのかがわかる」
言葉にしてみると思ったよりも簡単なことだった。ぼくはずっと、恥ずかしさで消えてしまいたかったのだ。
「ぼくが歩けるようになったか見に来て、よかったなって言って。それでまたお前は戦場に行く。次に帰ってきたら、また知らない場所の話をしてくれる。ぼくはそのあいだ、昨日より何歩多く歩けたかを数えている」
ぼくは身の丈にあわない努力をして、いっぱしの戦士になったと思った。戦では他の仲間を助けることもできた。しかし、背伸びをしたところで、本来の身長が変わるわけではないのだ。
「フィオ」
「ああ……くそ、ローデン、おまえは何も悪くない。何も。でも、でも、もう来なくていい」
ローデンはしばらく何も言わなかったけれど、やがて「わかった」と言って立ち上がった。ローデンと目線が外れたとき、ぼくは確かな安堵を得た。
◆
次の日もまた、朝の鐘が鳴るより前に目が覚めた。まだ暗かった。しばらく寝台の上で横になっていたが、眠り直すことはできなかった。昨日のことを考え、とんでもないことをしでかしたとぼくは改めて思った。ぼくは恥の上塗りをした。気にかけてくれたローデンを傷つけた。とにかく謝らなくてはいけないと思った。
やがてぼくは寝台から降りて、ローデンの寝床へ向かった。そこには誰もいなかった。「ローデンなら、もう出たぞ」と近くにいた男が言った。
「北へ行く隊だ。夜明け前に発った」
「いつ帰る?」
「さあな。しばらくかかるんじゃないか」
空になった寝床を見て、ぼくはまた、自分の遅さを悔やんだ。




