第6話 決意の夜
8月10日。
その日、我が家に小さな命が誕生した。
飼っていた猫が、3匹の子猫を産んだのだ。
本来なら、ただただ喜ばしい出来事だったはずなのに。
現実は、そう簡単なものではなかった。
1匹は、死産だった。
もう1匹は、生きてはいるものの、今にも息が止まってしまいそうなほど弱っていた。
そして、その子は母猫に育児を放棄されてしまった。
残る1匹だけは、母猫がちゃんと面倒を見ていた。
生まれたばかりの、小さな小さな身体。
まだ目も開いていないその子を見て、私は何とかして助けたいと思った。
このまま放っておいたら、きっと死んでしまう。
そんなことは、考えたくもなかった。
私は、育児放棄された子猫のお世話に必死になった。
身体を冷やさないように。
少しでも生き延びられるように。
何とかして、この子を助けたい。
頭の中は、そればかりだった。
そんな私の傍には、繋がいた。
私が子猫のお世話にかかりきりになっている間、彼はご飯を作ってくれた。
子猫を温めるためにお湯が必要になると、お湯を沸かし、人肌くらいの温度に調整して、ペットボトルに入れて用意してくれた。
私が目の前の小さな命に集中できるように、彼は自分にできることをしてくれていた。
何か特別な言葉をかけられたわけではない。
ただ、手を貸してくれた。
それが、ありがたかった。
気づけば、深夜1時頃になっていた。
繋は、そんな時間まで付き合ってくれた。
私は、子猫のことで頭がいっぱいだったけれど、彼が一緒にいてくれる…それだけで少し安心出来た。
私だけじゃなく、我が子のように可愛がっている猫たちのことも気にかけてくれる。
そんな彼の姿に、少しずつ心が動いていた。
けれど私の願いは届かなかった…。
翌早朝5時頃。
懸命にお世話をしていた子猫が息を引き取った。
助けたかった。
せっかく生まれてきてくれたのに。
もっと生きていてほしかった。
あんなに小さな身体で、一生懸命生きようとしていたのに。
何とかしてあげたかった。
けれど、もう何もしてあげられなかった。
その日、私は小さな命を見送った。
夜通しのお世話を終えて少し仮眠を取った私に繋が声を掛けてくれた。
「気晴らしに出掛ける?」
私は頷き、繋は隣県まで連れて行ってくれた。
帰りが遅くなり、家に着いたのは夜9時頃だったと思う。
繋には翌日朝から予定があった。
自分の家族と隣県にある川へ遊びに行くことになっていたのだ。
だからあまり遅くまで引き止めるつもりはなかった。
いつものように家に帰り、猫たちに声をかけた。
「ただいまー!」
何気ない、いつもと変わらない帰宅の挨拶。
けれど、その直後だった。
異変に気づいた。
私が一番可愛がっている猫がぐったりしていたのだ。
……え?
どうしたの?
何があったの?
さっきまでの楽しかった気持ちは一瞬で吹き飛んだ。
頭が真っ白になった。
どうしよう…
どうしよう…!
病院に連れて行かなきゃ。
そう思ったものの、私は車を持っていなかった。
自分では、猫を病院へ連れて行くことができない。
姉に相談すると、夜11時頃まで待てば車を出してくれるという。
それまで待つしかない。
でも、待っている間に何かあったら?
もし、手遅れになったら?
朝方、子猫を亡くしたばかりだった。
また大切な命を失うかもしれない。
そんな恐怖が、頭の中を埋め尽くしていた。
一緒にいる繋には翌朝から予定がある。
ただでさえ帰りが遅くなってしまっていた。
これ以上付き合わせるわけにはいかない。
そう思って私は彼に伝えた。
「遅い時間までごめんね。帰って大丈夫だよ!明日朝早いでしょ? 今日はありがとう」
すると繋は言った。
「何言ってるの? こんな状態で帰れるわけないじゃん。病院行くよ」
その言葉を聞いた瞬間だった。
私の中で、何かが大きく動いた。
私は繋に病院へ連れて行ってほしいと頼んだわけじゃない。
むしろ帰ってもらうつもりだった。
明日は朝から家族との予定があることも知っていた。
だからこれ以上迷惑をかけたくなかった。
それなのに…
彼は私と猫を置いて帰ろうとはしなかった。
私だけじゃない。
私が大切にしているこの子のことまで大事にしてくれるんだ。
そう思った。
前日の夜もそうだった。
私が子猫のお世話に必死になっていた時、彼はご飯を作ってくれた。
子猫を温めるための準備もしてくれた。
そして今度は、ぐったりした猫を病院へ連れて行くと言ってくれている。
自分の予定があるのに。
こんなに遅い時間なのに。
私がお願いしたわけでもないのに…!
この人は、私が大切にしているものを、一緒に大切にしてくれる。
そのことがどうしようもなく嬉しかった。
そして、強く惹かれた。
その瞬間私の中で一つの答えが出た。
彼氏とは別れる。
ずっと先延ばしにしてきたこと。
分かっていたのに、決められなかったこと。
もう、終わらせよう。
私はそう決心した。
もちろん、その気持ちを繋に伝えたわけではない。
彼は、私の心の中でそんな決意が生まれたことなど、知るはずもなかった。
ただ、目の前の猫を病院へ連れて行こうとしてくれていた。
病院に着いた頃には、すっかり夜も更けていた。
診察までには一時間ほど待ったと思う。
その時間が、とても長く感じられた。
大丈夫かな。
助かるよね?
何か重い病気だったらどうしよう…
次から次へと不安が押し寄せてくる。
私は泣いていた。
落ち着こうと思っても、落ち着けなかった。
何をすればいいのかも分からず、ただオロオロしていた。
そんな私の隣で繋はずっと背中をさすってくれていた。
何かができるわけではない。
猫の具合が良くなると約束できるわけでもない。
それでも彼は傍にいてくれた。
背中に触れる手の温かさが、ありがたかった。
一人だったらどうなっていただろう?
不安でいっぱいの私にとって、彼が隣にいてくれることがとても心強かった。
やがて、猫の診察が始まった。
診てもらった結果、脱水症状と少し貧血を起こしていることが分かった。
点滴をしてもらうことになりさらに時間がかかった。
早く元気になってほしい。
そればかりを願っていた。
そしてようやく病院を出た。
家に帰り着いたのは深夜3時頃だったと思う。
病院へ連れて行く前より猫は少し元気になっていた。
その姿を見てようやく少し安心することができた。
よかった。
本当によかった。
朝方、子猫を亡くしたばかりだったからこそ、目の前のこの子が少しでも元気を取り戻してくれたことが、たまらなく嬉しくて安心した。
けれど、安心した途端今度は繋への申し訳なさが込み上げてきた。
もうこんな時間だ。
ただでさえ前日の夜も子猫のお世話に深夜1時頃まで付き合ってくれていた。
それなのに今日もこんな時間まで。
二日続けて私と猫たちのために時間を使わせてしまった。
本当に申し訳なかった。
でもそれ以上に
ありがたかった。
嬉しかった。
私が困っている時、彼は当たり前のように手を差し伸べてくれた。
自分のことだけではなく、私の大切な猫たちのことまで気にかけてくれた。
私はそんな彼の優しさに惹かれていた。
これまでだって、優しい人だとは思っていた。
料理を作ってくれることも
話を聞いてくれることも
一緒にいて安心できることも。
全部、嬉しかった。
けれど、この二日間で感じたものは、それまでとは少し違っていた。
楽しい時間を一緒に過ごせる人。
それだけじゃない。
つらい時にも、困っている時にも、傍にいてくれる人。
私にとって大切なものを、自分のことのように大切にしてくれる人。
繋は、そんな人だった。
彼氏とはまだ別れていなかった。
あのLINE以来連絡も取っていない。
恋人という形だけが残ったまま何も進んでいなかった。
私はずっと自分から別れを告げることをためらっていた。
でももう気持ちは決まっていた。
彼氏との関係を終わらせよう。
繋と付き合えるかどうかなんてまだ分からない。
あの日の告白についても、相変わらず何も話していない。
私たちの関係には、まだ名前がなかった。
それでも。
私は、繋に惹かれていた。
自分のために何かをしてくれるから、というだけじゃない。
私が大切にしているものを、同じように大切にしてくれる。
そのことが、何より嬉しかった。
大切な命を失い、また別の大切な命を失うかもしれないと怯えた今日。
そして、私の繋への気持ちが大きく変わった日。
彼に決意を伝えたわけではない。
彼氏に別れを告げたわけでもない。
外から見れば、私たちの関係は昨日までと何も変わっていなかった。
けれど私の心の中では、確かに何かが変わっていた。
あの日、繋が言ってくれた言葉。
「病院行くよ」
その一言がずっと胸に残っていた。
私はもう自分の気持ちから目を逸らすのをやめようと思った。
――第6話 決意の夜 終




