第5話 曖昧な関係
あのカラオケデートから、私の中で少しずつ何かが変わり始めていた。
彼氏との関係を終わらせなきゃ。
以前から頭の片隅にあったその考えが、日に日に大きくなっていった。
あのLINEが届いて以来、彼氏とは連絡を取っていなかった。
別れようと言われたわけではない。
私から別れを告げたわけでもない。
だから、私たちはまだ恋人同士だった。
少なくとも、形の上では。
けれど、連絡を取ることもなくなった私たちの関係を、恋人同士と呼んでいいのかは分からなかった。
別れた方がいい。
そう思う気持ちは、確実に強くなっていた。
それでも、最後の一言を自分から伝えることには、どうしても抵抗があった。
そんな中、繋と会う機会はどんどん増えていった。
最初は食事やドライブ。
それがいつしか、お互いの家を行き来するようになり、泊まりがけで過ごすことも珍しくなくなっていた。
不思議なことに、あの日の告白について、私たちは一度も話さなかった。
『俺と付き合ってみない?』
あんなことを言われたはずなのに。
まるで、最初から何もなかったかのように。
それなのに、私たちは以前よりずっと近い距離にいた。
身体の関係はない。
けれど、過ごしている時間だけを見れば、ほとんど恋人同士のようなものだった。
……私たちって、いったい何なんだろう。
そんな疑問が浮かぶことはあっても、わざわざ口にすることはなかった。
繋の家に泊まりに行くと、彼はいつもご飯を作ってくれた。
和風パスタに、焼き魚。
チキンカツや唐揚げ。
その日の献立はさまざまで、料理ができる彼は、いろいろなものを振る舞ってくれた。
それが、純粋に嬉しかった。
誰かが自分のために料理を作ってくれる。
ただそれだけのことなのに、私にとっては特別なことだった。
彼氏と付き合っている間、私はどちらかといえば尽くす側だった。
相手のために何かをすることはあっても、自分が何かをしてもらう機会は、あまりなかったように思う。
外食ではなく、誰かの手料理を食べるなんて、いつ以来だろう。
そんなことを考えながら、繋の作ってくれた料理を口に運んだ。
自分のために作ってくれたご飯。
その温かさが、なんだか嬉しかった。
そして何より。
私は、繋の前ではご飯を食べることができた。
それは当時の私にとって、決して当たり前のことではなかった。
彼氏と付き合い始めた頃、私はとても太っていた。
もともと、自分の太った体型には強いコンプレックスがあった。
鏡を見るのも嫌になることがあったし、周囲の視線が気になることもあった。
そんな私とは対照的に、彼氏はとても痩せていた。
身長はほぼ変わらない。
男性としては小柄だったけれど、体型も細く、女性用のSサイズの服さえ着られるほどだった。
そんな彼氏の隣に並ぶたび、私は自分の身体が余計に大きく感じられた。
釣り合っていない。
そう思ってしまう。
もっと痩せなきゃ。
彼氏に似合う女の子にならなきゃ。
いつしか、それは単なる願望ではなく、強迫観念のようなものになっていた。
食事をすることさえ、怖くなっていった。
食べたら太る。
これ以上太ったら、もっと釣り合わなくなる。
そんな考えが頭から離れず、食事が喉を通らなくなった。
けれど、彼氏にはそんな私の気持ちは伝わっていなかったのだと思う。
「一緒に飯食いに行ってもつまらない」
「少食ぶってんの?」
「一緒に飯食いに行きたくない」
そんな言葉をかけられることもあった。
少食ぶっているわけじゃない。
本当は、私だって美味しいものを食べたい。
でも、食べることが怖かった。
太っている自分が恥ずかしくて。
隣にいる彼氏と釣り合わない自分が嫌で。
痩せなければいけないという思いに、ずっと追い詰められていた。
それなのに、食べなければ食べないで、彼氏を不機嫌にさせてしまう。
どうすればよかったのだろう。
今思えば、あの頃の私は、食事を楽しむという当たり前のことさえできなくなっていた。
でも、繋は違った。
彼は、太っている私を否定しなかった。
それどころか、そんな私でもいいと言ってくれた。
というより。
そもそも繋は、ふくよかな女性が好きだったのだ。
いわゆる、デブ専。
……なんだそれ。
私があれほど悩んでいた体型が、彼にとってはむしろプラス要素だというのだから、人生とは分からないものだ。
しかも、繋自身もふくよかな体型をしていた。
それが、私にはありがたかった。
痩せた男性の隣に並んで、自分の大きさを気にする必要がない。
少なくとも、彼氏と一緒にいた頃のような緊張感はなかった。
だからといって、太っている自分を好きになれたわけではない。
相変わらず、自分の体型は嫌いだった。
自信だって、全然ない。
鏡に映る自分を見て、落ち込むことも変わらなかった。
ただ、一つだけ変わったことがあった。
痩せなきゃ。
もっと痩せなきゃ。
そう自分を追い詰める気持ちが、少しずつ薄れていったのだ。
こんな自分を、そのまま受け入れてくれる人がいるなんて。
正直、驚いた。
今までの私は、痩せなければ愛されないと思い込んでいたのかもしれない。
でも、繋は違った。
今の私でもいい。
そう言ってくれる人が、目の前にいる。
それが嬉しくて、どこか信じられない気持ちでもあった。
繋の前では、無理に少食でいる必要もなかった。
食べたいものを食べていい。
美味しいと思ったら、美味しいと言っていい。
そんな当たり前のことが、少しずつできるようになっていた。
彼の作ってくれるご飯を食べながら、私は久しぶりに、食事を楽しむという感覚を取り戻し始めていた。
食事を終えたあとは、二人でのんびり過ごした。
その日にあった出来事。
仕事の話。
何でもない、たわいもない会話。
私が飼っている猫たちの話をすることもあった。
猫たちのことなら、話題はいくらでもあった。
それぞれ性格も違えば、行動も違う。
毎日一緒に暮らしていても、飽きることなんてない。
そんな日常の話を、繋に聞いてもらう。
特別な出来事がなくても、話すことは尽きなかった。
そして、夜。
眠る時は、シングルサイズのお布団に二人で入った。
一人で寝るためのお布団だから、当然、二人で寝るには狭い。
自然と身体がくっつく。
……というより、くっつかないと収まらない。
そんな距離で、私たちは眠っていた。
今思えば、なかなか不思議な関係だったと思う。
付き合っているわけでもない男女が、同じ布団で身体を寄せ合って眠る。
それなのに、身体の関係はない。
ただ一緒にいて、話をして、眠る。
そんな時間を重ねていた。
最初の頃は、繋を男性として意識することに戸惑いもあった。
けれど、会う回数が増えるにつれて、彼と一緒にいることが少しずつ自然になっていった。
一緒にご飯を食べること。
他愛もない話をすること。
同じ布団で眠ること。
まるで、ずっと前からそうしていたかのように。
私たちは、少しずつお互いの日常に入り込んでいった。
もちろん、私の家で過ごすこともあった。
繋が泊まりに来ることもあれば、私が彼の家に泊まりに行くこともある。
どちらかの家で過ごす時間が増えるにつれて、外で会うだけでは分からなかった一面も、少しずつ見えてきた。
デートの時だけではない。
特別な場所に出かけなくても、一緒に過ごせる。
そんな関係になっていた。
ただ、その一方で。
彼氏との関係は、何も変わっていなかった。
あのLINE以来、連絡は途絶えたまま。
別れ話をしたわけでもなければ、仲直りをしたわけでもない。
ただ、何もない時間だけが過ぎていった。
私の中では、別れたいという気持ちが強くなっていた。
それでも、まだ自分から別れを告げることはできなかった。
一方の繋とは、会うたびに距離が近づいていく。
恋人ではない。
でも、ただの友人とも言い切れない。
そんな関係だった。
繋のことを、どう思っているのだろう。
時々、そんなことを考えた。
優しい人。
一緒にいて楽しい人。
料理が上手で、私の話を聞いてくれる人。
そして、太っている私を、そのまま受け入れてくれる人。
彼の前では、無理に自分を取り繕わなくてもよかった。
少なくとも、体型のことで自分を追い詰める必要はなかった。
それが、どれほど気持ちを楽にしてくれたことか。
でも、これは恋なのだろうか。
それとも、今まで感じたことのなかった安心感に、ただ甘えているだけなのだろうか。
その違いは、まだ分からなかった。
あの日の告白について、繋は何も言わない。
私も、何も聞かない。
返事を求められることもなければ、改めて気持ちを確かめ合うこともなかった。
それなのに、私たちは恋人のように過ごしている。
もし誰かに、二人はどういう関係なのかと聞かれたら。
私は、何と答えればいいのだろう。
友達?
それとも、恋人になる前の関係?
どちらもしっくりこなかった。
そもそも、彼氏と正式に別れていない私が、繋との関係に名前をつけようとすること自体、おかしいのかもしれない。
そんなことを考えながらも、私は繋に会うことをやめなかった。
彼の作るご飯が嬉しかった。
一緒に過ごす時間が楽しかった。
隣で眠ることも、いつしか当たり前になっていた。
そして何より、繋といる時の私は、以前よりもずっと気持ちが楽だった。
それだけは、確かだった。
今の恋人とは、別れたい。
でも、自分から別れを告げる勇気はない。
繋のことは、少しずつ特別になっている。
でも、その気持ちが恋なのかどうか、まだ分からない。
別れの言葉もないまま終わりに近づいている関係と。
付き合うという言葉もないまま始まりかけている関係。
私は、その二つの間にいた。
どちらにも、はっきりとした答えを出せないまま。
それでも、日々は過ぎていく。
繋と会って、ご飯を食べて、話をして、同じ布団で眠る。
そんな時間を重ねるたびに、彼の存在は私の日常の中で大きくなっていった。
私たちは、恋人じゃない。
でも、ただの友達でもない。
あの日の告白は、まるでなかったことになっている。
それなのに、二人の距離だけは確実に近づいていた。
名前のつかない、この関係。
私はまだ、その先に何が待っているのか知らなかった。
――第5話 曖昧な関係 終




