第4話「揺れる心」
あの日から、数日が経っていた。
繋から告げられた、突然の告白。
『俺と付き合ってみない?』
その言葉は、今も私の頭の片隅に残っていた。
本気なのか、冗談なのか。
あの時は戸惑うばかりで、すぐに答えを出すことなんてできなかった。
それに、私にはまだ彼氏がいる。
繋もそのことを知っていた。
それでも彼は、私の気持ちが整理できるまで待つような姿勢を見せてくれていた。
そんな彼に対して、私には一つ、気になっていることがあった。
前回、二人で過ごした日のことだ。
楽しく過ごしていたはずの車内で、私の仕事関係のトラブルが起きてしまった。
繋は「大丈夫? 気にしなくて良いよ」と声をかけてくれた。
その優しさに、私はずいぶん救われた。
けれど、せっかくの楽しい時間を台無しにしてしまったような気がして、ずっと申し訳なく思っていた。
だから私は、繋にお詫びがしたいと申し出た。
そうして決まったのが、カラオケデートだった。
⸻
デートを翌日に控えた頃。
彼氏から、一通のLINEが届いた。
その内容は、私たちの関係そのものを問いかけるようなものだった。
『俺から別れを言うことはないけど、付き合ってる意味ある?』
正確にどんな文章だったのかは、もう覚えていない。
ただ、遠回しに別れを仄めかされているように感じたことだけは、はっきりと覚えている。
別れようとは言わない。
でも、付き合っている意味を問われる。
それなら、どうしたいのだろう。
私に別れを切り出してほしいのだろうか。
そんなことを考えていた。
正直なところ、もう別れた方がいいのかもしれないと思う気持ちはあった。
でも、自分から別れを告げるのは嫌だった。
一般的には振る方が悪役、というイメージがあったからだ。
また、告白したのが私からだったというのもある。
だからといって、今までどおり何もなかったように付き合い続けられるのかと聞かれれば、それも分からない。
答えの出ない問題を抱えたまま、私は翌日を迎えた。
待ち合わせの時間が近づいていた。
実は私、繋には自分の住んでいるマンションを教えていなかった。
いくら何度か会っているとはいえ、まだ知り合って間もない男性だ。
優しい人だとは思う。
でも、それとこれとは話が別。
用心するに越したことはない。
そう考えた私は、自宅から少し離れた別のマンションを待ち合わせ場所に指定していた。
これなら、どこに住んでいるのか分からないだろう。
我ながら、なかなか良い作戦だと思っていた。
ところが。
『近くまで来たよ』
繋から連絡が入った。
私はいそいそと準備を整え、マンションを出た。
そして、道路へ出たところで――
「あっ」
そこには、ちょうど繋の姿があった。
……え?
うそでしょ?
まさかの鉢合わせだった。
よりによって、自分のマンションから出てきたところを見られてしまったのだ。
せっかく別のマンションを指定したのに!
これじゃ意味ないじゃん!
心の中で盛大に頭を抱えた。
幸い、私の住んでいるマンションは、道路から玄関が見えない造りになっていた。
だから、どの部屋に住んでいるかまでは分からないはず。
……とはいえ。
マンションがバレた時点で、私の作戦は完全に失敗していた。
あちゃー……。
そんな気持ちを抱えながらも、私は何食わぬ顔で繋の車に乗り込んだ。
時刻はちょうどお昼頃。
まずは昼食を取ることになった。
何を食べようかという話になり、私は迷わずラーメンを希望した。
昔から、ラーメンが大好きだった。
せっかくなら好きなものを食べたい。
そんな私の希望を聞いて、繋は近くのラーメン屋へ連れて行ってくれた。
店に入り、席に着く。
運ばれてきたラーメンを前に、私はすっかり上機嫌だった。
やっぱりラーメンっていいなぁ。
そんなことを思いながら食べていると、繋もラーメンを口に運んでいた。
「美味しいね」
そう言って食べてくれる姿が、なんだか嬉しかった。
自分の好きなものを、相手も美味しいと言ってくれる。
ただそれだけのことなのに、不思議と楽しい気持ちになる。
食事をしながら、話題はこのあとの予定へと移った。
「どこのカラオケ行く?」
どこにしようかと話し合いながら、ラーメンを食べ進める。
何でもない、ありふれた昼食の時間。
でも、こうして誰かと相談しながら予定を決めることも、デートの楽しさの一つなのかもしれない。
食事を終えると、ラーメン代は繋がご馳走してくれた。
私はお礼を伝え、再び車に乗り込んだ。
次はいよいよ、カラオケだ。
向かったのは、誰もが名前を知っているような有名なカラオケチェーン店だった。
受付を済ませ、案内された部屋へ入る。
ソファに腰を下ろし、曲を探し始めた。
さて、何を歌おう。
……なんて、平静を装ってはいたものの。
実は私、ものすごく緊張していた。
繋の前で歌うのは、これが初めてだった。
人前で歌ったことがないわけじゃない。
カラオケだって嫌いじゃない。
それなのに、どうしてこんなに緊張するんだろう。
歌が下手だと思われたらどうしよう。
音を外したら恥ずかしい。
声が裏返ったりしないかな。
考え始めると、余計に緊張してくる。
心臓が飛び出してしまいそうだった。
一方の繋はというと、特に緊張している様子もない。
少なくとも、私にはそう見えた。
なんでそんなに普通でいられるの?
こっちはこんなにドキドキしているのに。
そんなことを思いながら、ついに自分の歌声を披露する時がやってきた。
マイクを握る。
曲が流れ始める。
……ああ、緊張する!
それでも、歌い始めてしまえば少しずつ気持ちも落ち着いていった。
一曲、また一曲。
お互いに歌いながら、時間が過ぎていく。
最初こそ緊張していたものの、カラオケはそれなりに盛り上がった。
気づけば、三時間ほどが経っていた。
楽しい時間というのは、どうしてこうも早く過ぎるのだろう。
会計は、二人できっちり折半した。
今日は私がお詫びをしたくて誘った日でもある。
だから、何でもかんでも繋に甘えるつもりはなかった。
お昼はご馳走になったけれど、カラオケ代はそれぞれ自分の分を支払った。
店を出る頃には、最初の緊張もすっかり薄れていた。
カラオケをあとにした私たちは、今度は海へ向かうことになった。
以前、夜のドライブで訪れた海とは反対方向にある海だった。
あの時は夜だった。
暗い海を眺めながら、繋と過ごした時間。
それに対して、今日は昼間の海だ。
同じ海でも、時間帯が違うだけで、ずいぶんと印象が変わる。
近くの有料駐車場に車を停め、二人で砂浜へ向かった。
潮の香りがする。
波が寄せては返し、砂浜には穏やかな時間が流れていた。
私たちは海辺を散策したり、写真を撮ったりしながら過ごした。
何か特別なことをしたわけじゃない。
ただ一緒に歩いて、景色を眺めて、写真を撮る。
それだけだった。
でも、楽しかった。
ふと、思う。
……なんだか、恋人同士みたい。
お昼にラーメンを食べて。
カラオケに行って。
今は二人で海を歩いている。
傍から見たら、きっと普通のカップルに見えるんだろうな。
そんなことを考えると、少しだけ不思議な気持ちになった。
だって、私たちは恋人じゃない。
繋は私に告白してくれたけれど、私はまだ返事をしていない。
それなのに、こうして二人で過ごしている。
しかも、私にはまだ彼氏がいる。
その事実を思い出すと、胸の奥に小さな罪悪感が生まれた。
これって、いいのかな。
彼氏がいるのに、別の男性とこんなふうに過ごしていて。
そんな思いが、頭をよぎる。
けれど、不思議なことに。
罪悪感があるからといって、楽しくなくなるわけではなかった。
むしろ、繋と過ごす時間は心地よかった。
そして私は、少しずつ気づき始めていた。
繋のことを、ただの知り合いとして見ているわけではないのかもしれない。
最初は、優しい人だと思った。
一緒にいて楽しい人だと思った。
でも、今はそれだけではないような気がする。
男性として、少しずつ意識し始めている。
そんな自分がいた。
ただ、それが恋なのかと聞かれたら、まだ分からなかった。
繋と一緒にいると楽しい。
もっと話していたいと思うこともある。
でも、彼氏との関係は終わっていない。
何より、自分自身の気持ちさえ、まだ整理できていなかった。
そんな複雑な思いを抱えながらも、私は繋と砂浜で過ごす時間を楽しんでいた。
海をあとにする頃には、日も傾き始めていた。
帰り道、私たちはファミリーレストランに立ち寄った。
そこで夕食を取ることになった。
お昼はラーメン。
そのあとはカラオケ。
そして、昼間の海。
最後はファミレスで夜ご飯。
振り返ってみると、ほとんど一日中、繋と一緒にいたことになる。
朝から晩までというほどではないけれど、それでも十分に長い時間だった。
こんなふうに一日を過ごすなんて、最初に繋と出会った頃には想像もしていなかった。
そもそも、こうして二人で出かけるようになること自体、思ってもみなかったのだから。
食事を終えると、いよいよ帰る時間になった。
楽しかった一日が終わる。
繋と別れ、私はいつもの日常へと戻っていった。
一人になると、今日の出来事が頭に浮かんだ。
待ち合わせで、まさかの鉢合わせをしてしまったこと。
大好きなラーメンを食べたこと。
初めて繋の前で歌うのが、あんなにも緊張したこと。
昼間の砂浜を二人で歩いたこと。
写真を撮ったこと。
そして、夜ご飯を食べて別れたこと。
思い返せば、どれも楽しい時間だった。
けれど、その楽しさの裏側には、ずっと小さな引っかかりがあった。
彼氏から届いた、あのLINE。
『俺から別れを言うことはないけど、付き合ってる意味ある?』
別れた方がいいのかもしれない。
そう思う自分がいる。
でも、自分から別れを告げるのは嫌だった。
かといって、今の関係をこのまま続けていくことが正しいのかも分からない。
そして、そんな私の前に現れた繋。
優しくて、一緒にいると楽しくて。
気づけば、少しずつ男性として意識するようになっていた。
でも、繋の優しさに甘えていいのだろうか。
彼氏との関係が曖昧なまま、別の誰かに惹かれていくことは、許されるのだろうか。
考えても、答えは出なかった。
ただ、今日一日が楽しかったことだけは確かだった。
それが、少しだけ後ろめたくて。
それでも、嬉しかった。
今の恋を終わらせる決心も。
新しい恋に踏み出す覚悟も。
まだ、私にはなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
あの日を境に、繋は私の中で、少しずつ特別な存在になり始めていた。
そして私はまだ、その変化にどう向き合えばいいのか分からずにいた。
――第4話「揺れる心」終




