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ここから  作者: きさら
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第3話 優しさの、その先に

7月のドライブから、約1ヶ月が経った。


あの日、星空の下で過ごした時間は、私の中にあった川崎繋という人の印象を少しだけ変えていた。


初めて会ったときは、あんなに怖かったのに。


2度目に会った彼は、思っていたよりもずっと穏やかで、話しやすい人だった。


だからといって、特別な感情が芽生えたわけではない。


ただ、もう一度会うことになっても、今度はそれほど気が重くならないだろう。


そんなふうに思えるくらいには、彼への警戒心が薄れていた。


8月に入り、私たちは3度目のお出かけをすることになった。


日にちだけを大まかに決めて、行き先は彼に任せていた。


どこに行くんだろう?


そんなことを考えながら迎えた当日。


彼が連れて行ってくれたのは、少し変わった飲食店だった。


そこには釣り堀があり、自分たちで釣った魚を料理してもらえるのだという。


しかも、釣った魚を使った料理が、コースの一部として出てくるらしい。


「えっ、釣った魚を食べられるんですか?」


思わず声が弾んだ。

初対面の時に話した釣りのことを覚えててくれたのか。


普通のレストランとは違う、ちょっとした体験ができる場所。


こういうお店があることすら、私は知らなかった。


彼がどうしてここを選んだのか、そのときはまだ分からなかった。


けれど、食事のことを考えたとき、私はふと気づいた。


私には、どうしても食べられないものがある。


牛肉と豚肉だ。


嫌いだから、という単純な理由ではない。


中学生の頃に経験した、ある出来事がきっかけだった。


今では食べられるものも増えたけれど、どうしても口にできないものは残っている。


ただ、その理由を彼に話したことはなかった。


食べられない。


そう伝えただけだった。


それなのに、彼は覚えていてくれたらしい。


魚料理が中心のお店なら、私も食事を楽しめる。


そう考えてくれたのだろうか。


彼から直接そう説明されたわけではない。


けれど、もしそうだったのなら。


――ちゃんと覚えててくれたんだ。


そう思うだけで、少し嬉しくなった。


初めて会ったとき、あんなに不機嫌そうだった人。


私の話なんて、ほとんど聞いていないと思っていた人。


そんな彼が、食べられないものまで覚えてくれていた。


人の印象というものは、本当に分からない。


私たちは釣りを楽しみ、その後、食事をすることになった。


自分たちで釣った魚が料理になって運ばれてくる。


それだけで、いつもの食事とは少し違って感じられた。


料理を前に、私は自然と笑顔になっていた。


けれど、魚介類なら何でも食べられるというわけではない。


私には、苦手なものがいくつかある。


そんな料理が出てきたとき、彼は無理に食べるよう勧めることもなく、代わりに食べてくれた。


「それ、苦手なん?」


気まずそうに頷くと、彼は気にする様子もなく引き受けてくれた。


苦手なことを非難するわけでもない。


ただ、当たり前のように受け入れてくれる。


その何気ない態度が、私には心地よかった。


食べ物の好き嫌いは、時に人を困らせてしまう。


せっかく選んでもらったお店で、食べられないものがあると申し訳なくなることもある。


けれど、この日の私は、そんなことを必要以上に気にせずにいられた。


――優しい人なんだな。


そう思った。


2度目のドライブでは、思っていたより良い人かもしれないと感じた。


そして3度目の今日は、その印象が少しずつ確かなものになっていく。


もちろん、まだ彼のことを深く知っているわけではない。


それでも、初対面のときには見えなかった一面を、またひとつ知ることができた気がした。


食事を終えた私たちは、車に戻った。


すぐに帰るわけでもなく、車の中で何気ない話をしていた。


食事の感想。


お互いのこと。


とりとめのない会話。


初めて会った日のような、息苦しい沈黙はもうなかった。


そんな時間の中で、彼がふいに口を開いた。


「俺と付き合ってみない?」


一瞬、言葉の意味が理解できなかった。


――え?


今、何て言った?


あまりにも自然な口調だったから、冗談なのか本気なのか、すぐには判断できなかった。


けれど、彼は確かにそう言った。


付き合ってみない?


私と?


本気?冗談?


驚きはしたものの、私はすぐに返事をすることができなかった。


当時の私には、まだ恋人がいた。


関係は冷え切っていたけれど、正式に別れたわけではない。


そして、私にとって誰かと付き合うということは、決して軽いものではなかった。


ただ寂しいから。


何となく気が合うから。


そんな理由だけで恋人を作りたいとは思わなかった。


私は、付き合う相手とは将来のことまで考えたいと思っていた。


だからこそ、彼にもその気持ちを伝えた。


「もしも付き合うなら結婚まで考えてるから、生半可な気持ちなんだったらやめて」


自分でも、少し重たい言葉だと思う。


まだ3回しか会っていない相手に、結婚という言葉を出すなんて。


けれど、曖昧な気持ちのまま付き合うことだけはしたくなかった。


彼がどう受け取るのか、少し不安だった。


すると彼は、落ち着いた様子で答えた。


「自分も年齢や仕事柄そう思ってるよ」


その返事は、私にとって意外なものだった。


結婚という言葉を出せば、引かれるかもしれない。


重たいと思われるかもしれない。


そう考えていたからだ。


けれど、彼は私の考えを否定しなかった。


むしろ、同じように将来を考えていると言ってくれた。


それは、嬉しいことだった。


ただ、それだけで彼の告白を受け入れられるわけではない。


私には、まだ片づけなければならない関係があった。


彼も、そのことを知っていた。


恋人がいることも。


その関係が、うまくいっていないことも。


だからこそ、私は簡単に答えを出せずにいた。


すると彼は、こんなことを言った。


「彼を忘れるのに、俺を利用しても良いよ」


その言葉を聞いた瞬間、私は驚いた。


そんなことを言ってくれる人がいるんだ。


今の恋人との関係を整理できずにいる私を、責めるわけでもない。


すぐに答えを出すよう迫るわけでもない。


ただ、自分を頼ってもいいと言ってくれた。


私は、その言葉を素直に受け取った。


そして、嬉しかった。


もちろん、だからといって、その場で付き合うと決めたわけではない。


けれど、彼が私に向けてくれた気持ちは、確かに心に残った。


思いがけない告白の後も、私たちは車の中で話を続けていた。


そんなときだった。


仕事関係のことで、思いがけないトラブルが起きた。


相手から厳しい言葉を向けられ、私はすっかり落ち込んでしまった。


しかも、そのやり取りを彼にも聞かれていた。


――最悪だ。


せっかく楽しく過ごしていたのに。


こんなところを見せるつもりなんてなかった。


申し訳なさと恥ずかしさで、胸がいっぱいになった。


それと同時に、初めて会った日の彼の姿が頭をよぎった。


険しい表情。


不機嫌そうな態度。


あの日の彼は、本当に怖かった。


だから、今回も怒らせてしまうのではないかと思った。


楽しい時間を台無しにしたと、責められるかもしれない。


そんな不安を抱えていた私に、彼は言った。


「大丈夫?気にしなくて良いよ」


その言葉は、拍子抜けするほど穏やかだった。


怒っていない。


呆れてもいない。


ただ、私を気遣ってくれているように感じられた。


私は少し驚いた。


そして、ホッとした。


初めて会ったときの印象だけで、彼のことを決めつけていた自分が、少し恥ずかしくなった。


あの日の彼は、確かに怖かった。


けれど、それが彼のすべてではなかったのだ。


食べられないものを覚えていてくれたこと。


苦手な料理を代わりに食べてくれたこと。


私の考えを否定せず、受け止めてくれたこと。


そして、困っているときに怒らずにいてくれたこと。


ひとつひとつは、ささやかな出来事だったのかもしれない。


けれど、私の中では、それらが少しずつ積み重なっていた。


怖い人だと思っていた。


もう二度と会わないと思っていた。


それなのに、今は彼と一緒にいる時間を、心地よいと感じている。


――本当に、分からないものだな。


私は心の中で、そうつぶやいた。


この日、私は彼から告白された。


けれど、まだ返事はできなかった。


彼のことを、もっと知りたいと思い始めていたのかもしれない。


それでも、私の中には整理できていない気持ちが残っていた。


ただ、ひとつだけ確かなことがある。


5月3日。


最悪だと思ったあの日の出会いが、今、少しずつ違う意味を持ち始めていた。


そして私はまだ、この先に待っている出来事を何ひとつ知らなかった。


⸻


第3話 終

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