第002話:お兄ちゃんが、なんかおかしい
1. 佐藤家の、いつもと違う朝
「お兄ちゃん、ゴミ出し行ってくるよ……って、あれ?」
渋谷代々木学園高等部一年生の佐藤かんなは、玄関先で足を止めた。
兄の徹が、いつものように寝癖を撫でつけながら、しかしいつもとは違う、やけに無駄のない動きでゴミ袋を持ち上げていたからだ。よろけもせず、袋の重心を一瞬で見極めたかのような、静かで正確な所作。
「ん? どうした、かんな」
「ううん……なんでもない」
かんなは首を傾げながらも、それ以上は追及しなかった。徹は内心で小さく舌打ちする。
(……いかん。今のは動きが最適化されすぎた。荷物の重心くらい、もっとよろけて見せねば「冴えない兄」の看板に傷がつく)
かつて絶対企業を率いた覇王としての癖は、意識しなければ端々ににじみ出てしまう。今のトールにとって最優先の任務は、深層のイレギュラーを狩ることでも、国家のプロテクトを出し抜くことでもなく、ただ「いつも通りの、冴えない高校生」を演じ続けることだった。
それが、あの日誓った「目立たず、暴れず、大切なものだけを静かに守る」という、今度こその平穏への近道だと信じていたからだ。
朝食の席で、かんなはコンビニの新作パンをめぐって延々と語る徹を横目に、ふと違和感の正体に気づく。
(お兄ちゃん、なんか……姿勢がいい)
猫背でおどおどしていたはずの兄の背筋が、心なしかまっすぐだった。箸の持ち方すら、やけに綺麗になっている気がする。
「お兄ちゃん、今日なんか調子いいの?」
「え? いや、別に……。あ、そうだ。今日の帰り、駅前のパン屋で新作のメロンパン買ってこようかな。半額シールが貼られる時間、狙っていくか」
「……うん、いつも通りだ」
かんなは安堵とも呆れともつかない息を吐き、朝食の続きに戻った。
2. 教室、遠巻きの視線
学校に着くと、教室の空気がわずかに変わっていた。
昨日まで徹を「クラフト持ちのゴミ」と呼び、荷物を押し付けていた吉野陸と佐々木巧が、妙にそわそわとした様子で徹の席の周りをうろついている。
「あ、あの、徹……くん。お、おはよう……ございます」
「……何だよ、急に敬語で」
「い、いえ! なんでも!」
陸は逃げるように自分の席へ戻っていった。教室の隅では、クラスメイトたちが「あの二人、なんかキャラ変わった?」と首を傾げている。
徹は面倒くさそうに頬杖をつきながら、内心で独りごちた。
(あの程度の威圧で、ここまで怯えるとはな……。まあ、目立たれるよりは都合がいいが)
3. 学園、シスコンセンサーの警報
昼休みの中庭。かんなは親友の九条凜に、朝の違和感を打ち明けていた。
「なんて言うか……昨日ダンジョン実習から帰ってきてから、お兄ちゃんの雰囲気が変なの。いつもならスライムに追いかけられただけで半泣きになるのに、なんか妙に落ち着いてて。今朝も、なんかゴミ出しの動きがやけに綺麗だったし」
渋谷代々木学園高等部一年で、かんなのバディでもある九条凜は、腰まで届く黒髪を高く結い上げた、凛とした佇まいの少女だった。名門剣術道場の出で、学生ゆえ正規のランクはまだ最下級の「F級」に据え置かれたままの、それでいて一線級の探索者すら凌ぐと噂される剣の天才でもある。
「……詳しく聞かせてもらおう」
凜は箸を置き、真剣な顔でかんなに向き直った。生真面目さゆえに、一度気になったことは徹底的に突き詰めずにいられない性分である。
「それに、クラスの吉野くんと佐々木くんも変なの。昨日まであんなにお兄ちゃんのこと見下してたのに、今日は敬語で話しかけてて」
話を聞き終えた凜は、腕を組んで低く唸った。
「不遇ギフト持ちの生徒が、ダンジョンから無傷で帰還し、急に隙のない立ち姿になり、あまつさえ周囲の生徒までもが態度を変える……。かんな、これは看過できない事態だ」
「え、そんな大げさな話じゃ」
「いや。違法な魔力ドーピングか、あるいは反社会的なギルドとの闇取引に関与している可能性がある」
凜の思考は、生真面目さと想像力が悪い方向に噛み合うと、途端に加速する。かんなの兄を心から案じているがゆえの暴走だった。
「安心しろ、かんな。この私が、お前の兄君の正体を突き止め、必要とあらば目を覚まさせてみせる」
「り、凜……?」
親友の瞳に宿った鋼の決意を前に、かんなはただ乾いた笑いを浮かべることしかできなかった。
4. 管理局、静かに灯る警報
渋谷運営管理局、監視解析課の薄暗いオフィス。
調査官の遠野環は、ルーティンの巡回ログを流し見ていた手を止めた。
「……何、これ」
代々木ダンジョン第一層、昨日の実習時間帯。本来そこにいてはならない規格のC級魔物・オークの出現ログの直後、魔力反応が瞬間的に振り切れ、そのまま観測不能なノイズと共に消失していた。
魔物の生体反応も同時に消失している。討伐、というよりは――消滅。
「主任、これ見てもらえます?」
隣のデスクの先輩職員に画面を見せると、彼は片眉を上げた。
「ああ……これは。波形からして、既存のギフト分類には当てはまらないな。未登録の異能か、あるいは規格外の遺物でも拾ったか」
「調べてもいいですか」
「まあ、暇な時にな。優先度は低いが」
遠野はコーヒーを一口含み、画面を睨む。
「未登録のギフトによる異常出力……にしては、波形がおかしすぎる。この世界の魔力体系のものじゃない」
彼女は淡々とした手つきで、報告書のフォーマットに一行を書き加えた。
【第一層・イレギュラー案件/要観察】
ちょうどその頃、渋谷の裏路地では。
「よし、半額シール、三個ともゲットだ」
トールは売れ残りの弁当を三つも抱え、心底満足げな顔でジャンクショップへの道を歩いていた。自分が今まさに、運営管理局のブラックリストに片足を突っ込みかけていることなど、知る由もない。
今日の彼にとって最大の懸案事項は、弁当のおかずを何品確保できたか、それだけだった。




