第001話:死亡十二秒前、パシリに宿る覇王
0. 遠雷の彼方へ
異世界の覇王トールと妻セレスティアの居城の奥深くにある寝室は、新しく生まれた命の甲高い産声と、熱を帯びた歓喜に包まれていた。
「......よくやった、セレスティア。俺たちの帝国の、立派な『次期CEO』だ」
「ふふっ......ええ。あなたに似て、どこか気難しそうな顔をしているわね」
トールは、小さな命を慎重に腕に抱き、その確かな重みを噛みしめる。視界の網膜に展開される『管理者権限:支配領域』のステータスウィンドウが示すのは、自分やセレスティアすらも凌駕するであろう、規格外の魔力の胎動だった。
この星の理そのものをシステム化した『絶対企業』――その最強の「後継者」。前世、三十代のしがない社畜として死を待つだけだった男が、命懸けの覇道の末に初めて手にした「本当の家族」だった。
――だが、その瞬間。
ピチャリ、と。
時が止まったような静寂の中、水滴が水面に落ちるような硬質な音が響いた。
「......何だ?」
トールの網膜のホログラムが、激しい砂嵐のようなノイズに塗り潰される。室内の時間が完全に凍りつき、セレスティアの微笑みも、産声を上げていた息子の小さな口も、すべてが静止した。
光の霧の中から姿を現したのは、かつて二人の魂をこの世界へと誘った『無名の女神』――ララァであった。
「トール、ありがとう。あなたのおかげで、この惑星の未来は永遠に担保されたわ。お礼に、あなたを元の世界へと帰してあげるね」
それは一切の悪意も持たない、純粋な「善意」の塊だった。世界管理者たる神にとって、トールは世界を救った唯一無二の救世主に他ならない。
だが、トールの背筋を駆け抜けたのは歓喜ではなく、氷の悪寒だった。
元の世界。終わりのないサビ残、満員電車、理不尽な上司の罵声――そして何より、この妻も息子も「存在しない」、あの灰色の搾取地獄。この神は「ご褒美」という名目で、そこへ強制送還しようとしているのだ。純粋な善意による、史上最悪のシステムエラー。
「......何を言っている......ッ! ふざけるなッ! ここは俺の帝国だ、俺の家族だ――ッ!」
「大丈夫よ。あなたにも、今度こそ本当の幸せが訪れますように......」
ララァが手を差し伸べた瞬間、視界のすべてが過剰光に呑み込まれた。管理者権限も魔力回路も、すべてが強制終了されていく。
(セレスティア......ッ! 息子を......頼む......ッ!)
声にならない絶叫とともに、トールは意識の深淵へと真っ逆さまに落ちていった。
次に感じたのは、豪奢な絨毯ではなく、冷たい汚泥の感触だった。全身の血が抜け落ちていくような重力と、血の匂い。
――伝説の覇王は、こうして自分がどこへ、どんな姿で産み落とされたのかも知らぬまま、ただ一人の「不遇なクラフト持ちの高校生」として、絶望のダンジョンの底で目を覚ますことになる。
1. 渋谷代々木学園のダンジョン実習と、絶望のイレギュラー
現代日本――そこは、渋谷の空に巨大な穴が穿たれ、「代々木ダンジョン」が発生してから十五年が経過した世界。魔物と魔法がすっかり日常に溶け込み、授けられる「ギフト(天能)」の優劣が、若者たちのヒエラルキーを決定する時代となっていた。
「はぁ……重いな……」
渋谷代々木学園高等部3年生の佐藤徹(さとう
とおる)は、ひび割れた石灰岩の天井から差し込む薄暗い人工光の下で、背負った大きなナイロン製のリュックの紐を締め直した。
この世界では、高校生になるとダンジョン探索に適したギフトを授けられる。優秀な同級生たちが『魔力弾』や『高速ステップ』といった花形の戦闘能力を発現させる中、徹に与えられたのは、現代の探索者ギルドから「戦力外のゴミ」と蔑まれる不遇ギフト――『クラフト(加工・錬成)』だった。
戦闘力は完全にゼロ。魔物の素材をこねくり回して、せいぜい不格好な日用品を作るくらいしかできない。
当然、学内の課題実習でも、徹の立ち位置は戦闘班の男子たちの後ろを這いずる「荷物持ち(バックパッカー)」だった。
「おい、徹!
遅れてんぞ。何のためにクラフトなんてゴミ能力のテメェをパーティに入れてやったと思ってんだ。さっさと荷物運べよ!」
先頭を歩く同級生の吉野陸(よしの
りく)が、腰の初心者用ナイフをガチャつかせながら振り返る。陸が授かったのは『剛力』。F級にしてはマシなフィジカル補強系能力で、クラス内では調子に乗っているリーダー格の一人だった。
「そうだよ、徹。今回は安全な第一層の実習だからいいけどさ。普通、クラフト持ちなんてダンジョンに入ることすらおこがましいんだからな」
小賢しそうに眼鏡を指で押し上げるのは、もう一人の同級生、佐々木巧(ささき
たくみ)。微弱な『着火』魔法が使える。
今日の課題実習は、徹、陸、巧の「男子3人パーティ」で組まれていた。
代々木ダンジョンの最浅層である第一層。出現するのは通常、最弱のF級魔物――角ウサギやスライム程度だ。
「今回はカメラドローンの申請もしてねえし、配信用のチャンネルも作ってねえからバズるチャンスはねえけどよ。まあ、一瞬でノルマの魔石を回収して、渋谷のゲーセンで遊ぶぞ」
陸が退屈そうに鼻を鳴らす。
配信用のカメラもなく、教官の目も届かない、ただの静かな洞窟の角。
――その静寂が、唐突に引き裂かれた。
「――キ、ギ、ギ、ギギギギガアアアアッッ!!」
突如として、ダンジョンの空間自体がガラスが割れるように激しく歪み、赤黒い亀裂が生じる。
そこから這い出てきたのは、第一層に存在していいはずのない質量だった。
通常のゴブリンの三倍はあろうかという、筋肉の塊のような巨躯。泥と返り血に汚れた強靭な皮膚。そして、大人の胴体ほどもある極太の棘付き木製棍棒。
「な……、うそ……」 「あれって……C級魔物の、オーク……!?
なんで第一層に……!?」
巧が悲鳴を上げ、その場にへたり込む。
実習中の高校生が対峙していい相手ではない。完全なるダンジョン・イレギュラー。
「ひ、ひぃ……っ!」
陸は『剛力』の能力を起動しようとするが、オークから放たれる本物の殺気に圧され、腰のナイフを抜くことすらできずにガタガタと震え上がった。
オークが醜悪な牙を剥いてニヤリと笑い、陸の頭上へ向けて、鉄塊にも等しい木製棍棒をフルスイングで振り下ろした。
当たれば、人間の頭などザクロのように弾け飛ぶ。
「あ、あ……」
陸が、死を確信して腰を抜かした、その刹那。
ドゴォッッッ!!!
鈍く、重い、肉と骨が凄まじい質量で破壊される音が、薄暗い洞窟内に反響した。
「え……?」
陸が恐る恐る目を開けると、自分の目の前に、信じられない光景があった。
いつも背後で大人しく荷物を背負っていた、パシリの徹。
その徹が、陸を突き飛ばし、身代わりにオークの凶刃(棍棒)をその身に受けていたのだ。
ドサリ、と糸の切れた人形のように徹の身体が地面に転がる。
頭部は陥没し、壁に激突した衝撃で四肢はあり得ない方向に曲がっていた。
徹の頭の下から、じわり、と真っ赤な血の海が広がっていく。
「と、徹……?」
巧が喉を鳴らし、陸は呼吸の仕方を忘れたように目を見開いた。
静まり返ったダンジョンの一角。配信カメラもなく、目撃者も彼ら3人しかいない暗がりのなかで、徹はピクリとも動かなくなった。
2. 死の12秒前。覇王の「システムハック」
徹の脳細胞が死滅し、意識の炎が完全に消えかけようとした、その時。
『――起動。生体信号、消失まで残り十二秒』
徹の網膜の裏で、ノイズまみれの青白いホログラムが、見たこともない無機質なログを吐き出しながら激しく点滅した。
【システムスキャナ起動】 《警告:致命的エラー。損傷部位を解析中……》
《頭部外傷による脳挫傷、心破裂、致死量の失血。女神プロテクトによる全魔力回路のロックを確認》
《生体プロセス停止(完全なる死)まで:残り10秒》
その脳内のログを読み取ったのは、瀕死の男子高校生の魂ではなかった。
(フン……。心肺停止から十秒か。あの無能で余計なお世話の駄女神め、俺の魔力回路をここまでガチガチにロックして元の世界(ゴミ溜め)へ送り返しおったか)
それは、異世界で絶対企業『オーバーロード・インク』を率い、世界のシステムそのものをハッキング・支配した異世界の覇王――トールの魂だった。
女神の強制転送エラーの脆弱性を突き、佐藤徹の肉体へと強引に割り込んだ(オーバーライド)のだ。
(だが、甘い。俺を誰だと思っている。この程度の暗号化プロテクトなど、脆弱性の塊に過ぎん!)
死へのカウントダウンが冷酷に進む。
《生体プロセス停止まで:残り5秒》 《4……》
(――バイパス魔力回路、強制接続。女神プロテクトの暗号鍵をクラック!)
《3……》
(管理者権限オーバーロード。生体電位システムへ、異世界由来の超高密度魔力を強制注入!)
《2……》 「システムハック(物理デバッグ)――『オーバーライド・ヒール』」
《1……帰還完了。エラー修復を実行します》
瞬間。
横たわる徹の閉ざされた瞳の奥で、深遠なる蒼い光が、静かに、そして爆発的に起動した。
3. 物理的デバッグ、そして沈黙の恐怖
「あ……あ……」
腰を抜かしたまま涙と汗で顔を濡らしていた陸は、自分の目を疑った。
血だまりの中で、ピクリと徹の指先が動く。
そして、徹は重力を無視したかのように滑らかな動作で、スッと立ち上がった。
ゴキリ、ゴキリと、首の骨を鳴らす。
その頭部から流れていたはずの大量の血は完全に止まり、ひしゃげていた頭蓋も、あり得ない方向に折れていた四肢も、衣服の汚れを残して完全に「デバッグ(消滅)」されていた。
「と、徹……お前、生きて……え?」
陸の声が震える。
徹は乱れた前髪をかき上げ、鬱陶しそうにぼやいた。
「はぁ……。魔王を倒して、やっと愛する家族と平和な生活を送れると思ったら、死亡十二秒前の肉体に放り込まれるとはな。相変わらず融通の利かないクソ仕様だ、あの女神は……」
徹は乱れた前髪を払う。
その肉体は確かに「佐藤徹」だが、そこから発せられるプレッシャー、空気をねじ伏せるような絶対的な威圧感は、完全に別人のそれ――世界を支配した『覇王』のものだった。
(……もう、誰かを従えることにも、帝国を広げることにも興味はない。俺が本当に欲しかったのは、ただ気の抜けた、代わり映えのしない平穏な毎日だ。だったら今度こそ、目立たず、暴れず、静かに大切なものだけを守り抜く。)
「グルアアアッ!?」
一度倒したはずの獲物が何事もなかったかのように立ち上がったことに苛立ち、オークが再び極太の棍棒を振り上げる。
だが、徹の蒼い瞳が冷徹にその姿を捉え、システム的にスキャンした。
(なるほど。これがこの世界の『魔物』か。C級とやらの割には、随分と動作フレームが遅いな。動作クロックがバグっているのか?)
徹にとって、オークの突進など、電源の切れた扇風機が倒れてくるほどのスローモーションに過ぎない。
「おい、そこの下級労働者(同級生)。……ちょっと、目障りなバグ(ゴミ)を片付けるから、静かにしてろ」
徹はゆっくりと一歩前に踏み出す。
手元には武器などない。あるのは、ただの「荷物持ち」としての素手だけ。
「グルアアアアッ!!」
オークの棍棒が、徹の脳天めがけて振り下ろされる。
陸と巧が悲鳴を上げる中、
彼は避けることすらせず、ただ軽く右手をかざした。
魔法の発動速度(詠唱タイム)は、ゼロ。
「――放電」
パチィン、と。 指先を軽く鳴らした、ただそれだけの静かな音。
直後、青白い超高密度のプラズマ電磁が爆発的に迸り、オークの巨体を包み込んだ。
「ガ、ブ……ッ!?」 悲鳴を上げる時間すら与えられない。
体長3メートルを超えるオークの巨体は、一瞬にして細胞レベルで分解され、光の塵となって文字通り霧散した。
静寂が、代々木ダンジョンの第1層を支配する。
オークの持っていた棍棒も、肉体も、そこにあったという事実そのものが消滅したかのように、何一つ残っていない。
「あ……あ、あ……」
陸は恐怖のあまり喉を鳴らし、巧は白目を剥いたまま腰を抜かし、声もなくガタガタと震えていた。
配信カメラはなく、視聴者のコメントも、バズの歓声もない。
ただ、二人の男子高校生が、自分たちが「ゴミ」と嘲笑っていたパシリの少年が、指先一つで深層の魔物を塵にする『怪物』へと変貌した瞬間を、脳裏に刻み込まれただけだった。
「ふむ。この世界の魔力伝導率は悪くない。クラフト能力をハックすれば、異世界仕様のナノ素材も一瞬で鋳造できるな」
徹は網膜裏のシステムログを眺めながら、不敵な笑みを浮かべた。
そして次の瞬間、彼はフッと、いつもの「冴えない、少しおどおどした荷物持ちの徹」の表情へとシームレスに切り替えた。
(……目立って国家だのギルドだのに目をつけられるのも面倒だ。これからも、この「冴えない高校生」の仮面は被り続けるとしよう。)
乱れた前髪を戻し、腰の抜けた陸と巧に苦笑いしながら手を差し伸べる。
「あ、あの……大丈夫……?
陸くん、巧くん。……はぁ、なんか急に頭が痛くなって、気がついたらオークが消えててさ。……驚かせちゃってごめん。早く帰って、コンビニの半額弁当でも食べて寝ようか」
「あ、あ、あああ……っ!!」
陸は差し出された徹の手を、化け物の触手でも見るかのように凝視し、必死になって這いずりながら後ずさった。巧は声すら出ずに気絶している。
彼らの脳裏には、今見た「蒼い瞳の覇王」が完全に焼き付いていた。
配信もなく、誰もその覚醒を知らない。
だが、この静かな第一層での悲劇(と覚醒)が、後にシブヤを、そして世界のダンジョン開発と配信界を根底から狂わせる「最凶のハッカー・クラフト」の、真の始まりだった。




