第010話:拒否権はない、はずだった
1. 聴取室という名の、空き会議室
連れて来られたのは、物々しい取調室ではなく、渋谷運営管理局の隅にある、埃っぽい空き会議室だった。長机の上には、湯気の立つ紙コップが二つ。壁の隅には「備品:来月中に処分」と書かれた張り紙が、季節外れの扇風機に貼りついたまま忘れられている。
「……本当に、ここでいいのか」
トールが訝しげに周囲を見渡す。防音設備どころか、廊下を歩く職員の足音や、どこかの部署で鳴り続ける電話の呼び出し音まで、壁越しに丸聞こえだった。
「正規の聴取室は、今月いっぱい予約で埋まっているので」
遠野環は表情を変えずに答え、対面の椅子に腰を下ろした。パイプ椅子がぎしりと小さく軋む。
「まあ、好都合ではあります。この件、正規のルートに乗せるつもりは――今のところ、ありませんので」
トールの片眉が、わずかに動く。
「……ほう? あれだけ啖呵切っといて、随分と話が早いな」
「啖呵は、切っておいた方が交渉の主導権を握れますので」
悪びれもせずそう言い切る遠野に、トールは思わず半眼になった。かつて交渉の場で相対した重役たちの誰よりも、目の前の小娘の方がよほど食えない。そんな予感が、静かに背筋を撫でた。
2. 遠野の、身も蓋もない事情
「誤解のないように言っておきますが、隠蔽する気は毛頭ありません。ただ――」
遠野は紙コップを両手で包み、小さく息を吐いた。湯気が眼鏡のレンズをわずかに曇らせる。
「正式に報告書を上げれば、私の手を離れます。国家機密級の異能保有者として、上層部が本腰を入れて動き出す。そうなれば、あなたも、あなたの周りの人間も、二度と『冴えない高校生』ではいられなくなる」
「……それは、困るな」
「でしょうね。それに――正直に言えば」
遠野は、初めて表情を緩めた。
「こんな数値、上に報告しても『解析班のバグでは』の一言で終わります。ここ数年、原因不明のログはすべて『経年劣化によるセンサー誤作動』で処理されてきた実績がありますので。私の評価だけが、変な報告書を上げた職員として下がる未来しか見えません」
トールは思わず噴き出しそうになった。
「……お前、それが一番の理由か」
「一番ではありません。二番目くらいです」
「一番は何だ」
「単純に、面白そうだからです」
遠野は、紙コップの底に残ったコーヒーを名残惜しそうに見つめながら、そう付け加えた。トールは、初めてこの女の底が見えた気がして、わずかに肩の力を抜いた。
3. 取引という名の、公私混同
「そこで提案です」
遠野は端末を取り出し、テーブルの上に置いた。画面には、いくつかの未解決案件のファイルが並んでいる。フォルダ名はどれも「私物」「至急」「他言無用」と、およそ公務員らしからぬ字面で埋め尽くされていた。
「私が個人的に抱えている、ちょっとした厄介事――主に、私物の不具合修理と、原因不明の技術的な相談――を、あなたに解決していただきたい。その対価として、この件は当面、私の手元で『継続調査中』のまま塩漬けにします」
「つまり、お前の便利屋になれと」
「人聞きの悪い言い方をしないでください。対等な協力関係です」
トールは頭を掻きながら、椅子の背にもたれた。面倒事は嫌いだ。だが、正体を国家機関に握られた状態で暴れるよりは、遥かに手間がかからない。
(……こいつ、有能なんだか、ただの面倒くさがりなんだか、判断に困るな)
「一つ、条件を付け加えさせろ」
「……何でしょう」
「俺の生活に、必要以上に首を突っ込むな。あと、依頼の中身が明らかに国家機密に触れるようなら、その時点で交渉は白紙だ」
遠野はわずかに目を見張り、それから小さく頷いた。
「結構です。もとより、そのつもりでした」
「……まあいい。安いモンだ。それで手を打とう」
「交渉成立ですね」
遠野は端末をしまいながら、初めてわずかに口角を上げた。その顔は、先日の不敵な微笑みよりも、いくらか年相応に見えた。
4. 日常への帰還と、二人の忠犬
聴取という名の雑談を終え、ジャンクショップへ戻ったトールを、陸と巧が神妙な面持ちで出迎えた。
「あ、あの……徹。運営管理局の人に連れて行かれたって、風の噂で……大丈夫だったか?」
「まさか、しょ、証拠隠滅の手伝いとか、必要だったりは……! 俺たち、口が堅いのだけが取り柄なんで!」
巧が拳を握りしめて申し出る。トールは呆れ半分、感心半分でその様子を眺めた。忠誠心の方向性が、いちいち斜め上を向いている。
「あー……まあ、うん。ちょっとした事務手続きだ。気にするな」
(事務手続き、で済ませていい話かは怪しいが)
トールは苦笑しながら、作業台の上に転がっていた壊れたスマートフォンを一瞥する。遠野からの「最初の依頼」だった。
「にしても……国家機関の職員が、私物のスマホ修理を頼みに来るとはな。世も末だ」
呟きながらも、その手はすでに慣れた様子で分解を始めていた。誰かのために何かを直す――帝国を率いていた頃には、決して味わえなかった種類の、静かな面倒くささだった。
「なあ、徹。俺たちも、その運営管理局の人に紹介してもらえたりしないかな。何なら経歴に箔がつくかも」
「その発想はやめとけ。目をつけられるだけ損する相手だ」
経験者は語る、といった重みのある声でトールが言い切ると、陸と巧は揃って首をすくめた。
5. 新たな来訪者の予感
その頃、渋谷の高層マンションの一室では。
神城零が、自身の配信スタッフとの通話を終えたところだった。
「――決まったわ。次のコラボ企画、あの子に打診してみて」
零の視線の先には、あるSNS投稿が表示されていた。渋谷代々木学園の生徒とおぼしき少女が、正体不明の高性能ナノスーツを纏い、深層のイレギュラーを討伐する一部始終――。動画は既に数十万回再生され、コメント欄は「これ本当に学生装備なのか」「国の研究機関がまだ再現できてない出力比らしい」という驚愕の声で埋め尽くされていた。
「……ふぅん」
零は無表情のまま、動画を三度、繰り返し再生した。少女の身のこなしよりも、彼女がまとう装備そのものに、氷のような瞳が据えられている。
平穏を望むトールの日常に、また一つ、新しい足音が近づいていた。




