第九話「元婚約者が乱入してきた」
最悪の来客というものがある。
突然の雨でも、急ぎの修理依頼でも、朝一番に子どもが五人来ることでも、ない。
ルーチェの場合、最悪の来客とは、元婚約者ロデリック・シュタイン子爵令息が馬車で乗り付けてきた瞬間のことだった。
「ルーチェ、話がある」
馬車から降りてきたロデリックが、以前と変わらない調子で言った。
ルーチェは畑の端で土の状態を確認していた。泥がついた手をそのままに、立ち上がって振り返った。
「……ロデリック様」
何の話があるのか、ルーチェには全く見当がつかなかった。正確に言えば、話があったとしても、聞く必要を感じなかった。
ロデリックが村の中を見渡した。
補修された家屋が並び、畑には緑が育ち、学校から子どもたちの声が聞こえる。井戸の前ではシルビアが洗い物をしている。カルロスが新しい倉庫の柱を立てている。
ロデリックの顔が、少しずつ固まっていった。
「……こんなところで、何をやっているんだ」
「付与術師として独立しています」
「一人でこれを?」
「今は十四人います」
ロデリックが黙った。以前婚約破棄を告げた広間の、あの整った顔が、今は何とも言えない表情をしている。
「ご用件は何でしょうか」
ルーチェは穏やかに聞いた。仕事中に来たのだから、用件があるはずだ。用件を聞いて、用件がなければ帰ってもらう。それだけでいい。
「実は……新しい婚約の話が進んでいてな。相手が侯爵家の縁戚の令嬢で、その挨拶のために辺境まで来たのだが、道中でここを通ると聞いて」
「そうでしたか。ご丁寧にありがとうございます」
「お前に会いたかったわけではなくて、その、成り行きというか——」
ロデリックが言葉を選んでいる。うまく出てこないらしい。
ルーチェには関係のない話だったが、最後まで聞くことにした。相手の話を遮るのは前世の総務担当的に行儀が悪い。
「お前を……もう一度、傍に置けないかと思って」
ルーチェは少し間を置いた。
「どういう意味でしょうか」
「婚約の件は……正直、間違いだったかもしれない。お前がこれほど優秀だとは思っていなかった。今からでも——」
「失礼します」
低い声が、後ろから聞こえた。
ルーチェが振り返ると、エドガーが立っていた。
いつ来たのか。馬の音は聞こえなかったが——フィリップも後ろに控えている。今日は視察の予定があったことをルーチェは思い出した。
エドガーがロデリックを見た。視線だけで、言葉はない。ただその視線を受けたロデリックが、一歩後ずさりした。
「この村はハーヴェイ侯爵家の管轄領です」
エドガーが静かに言った。
「アルヴィス術師への用件は、私を通していただく必要があります。事前の連絡もなく訪問し、業務を妨げることはお控えいただきたい」
ロデリックの顔色が変わった。
「……侯爵閣下、でいらっしゃいますか」
「そうだ」
「これは失礼を。私はシュタイン子爵家の——」
「知っている」
エドガーが短く言った。それだけで、ロデリックが口を閉じた。
「ご用件が済んだなら、お帰りいただけますか。術師は仕事中です」
ロデリックが青い顔のまま一礼して、馬車に戻った。蹄の音が遠ざかる。
静かになった。
ルーチェはエドガーに向き直った。
「ありがとうございました」
エドガーがルーチェを見た。少し間があった。
「以前から、あの男は気に入らなかった」
ぽつりと言った。
ルーチェは少し驚いた。
「以前から……といいますと」
「王都で名前は知っていた。婚約者の評判というのは、付与術師の記録と一緒に調べることがある」
「侯爵家が私の記録を?」
「優秀な術師は管轄内に来るとき、事前に調べる。お前の術師としての評価は高かった。それなのに婚約者に抑えられているという話も届いていた」
ルーチェはしばらく黙っていた。
「……それを、ずっと知っていたんですか」
「だから、あの男が気に入らなかった」
短い答えだったが、ルーチェには十分すぎるくらいの答えだった。




