第七話「侯爵領の井戸を全部直してしまった」
侯爵領に呼ばれたルーチェは、枯れた井戸が「一本」だと思っていた。
エドガーから届いた書状にはそう書いてあった。「侯爵領内に枯れた井戸がある。先日の話の続きを聞かせてほしい」——一本だと思うのが普通だ。
現地に着いたら、十七本あった。
フィリップが申し訳なさそうな顔で「実は調べてみたら……」と言ったとき、ルーチェは一瞬だけ目を閉じた。
前世でもこういう仕事があった。「ちょっと確認してほしい書類がある」と言われて行ったら、段ボール三箱分あったあの日と、今この瞬間はよく似ていた。
ルーチェは袖をまくった。
「わかりました。順番に回りましょう」
エドガーが隣で「無理なら——」と言いかけた。
「大丈夫です。やり方は同じなので」
エドガーが少し間を置いてから、「わかった」と言った。
侯爵領の村を、一軒ずつ回った。
エドガーが同行して、各村の事情を説明してくれた。口数は少ないが、話す内容が正確で、無駄がない。「この村は三年前から水不足で、農業の収量が落ちている」「こちらは高齢の住民が多く、川まで水を汲みに行くのが難しくなっている」——現場を歩いている人間の言葉だ、とルーチェは思った。
一軒目の村で、作業を始めていると、白髪の老人が近づいてきた。
「付与術師の方ですか」
「はい」
老人の顔が少し曇った。
「以前にも来た方がいたんですが……その方は作業の前に高額を要求して、半分だけやって逃げてしまって」
ルーチェは手を止めて、老人を見た。
七十は越えているだろうか。日焼けしたしわだらけの顔に、疲れと警戒が混じっていた。
「では、終わってから金額を決めてください。払えなければ払わなくても構いません」
老人が目を丸くした。
「そんなわけには」
「以前の方に嫌な思いをされたなら、まず信用していただくのが先だと思います。仕事の結果を見てから決めてください。それに、住民の方からは報酬をいただくつもりはありません。必要なものがあれば領主側に相談しますから」
老人はしばらくルーチェを見ていた。それから、静かに目を潤ませた。
「……ありがとうございます」
ルーチェは作業に戻った。後ろでエドガーが何かを言いかけて、止まった気配があったが、振り返らなかった。
十七本の井戸を修復するのに、二日半かかった。
侯爵領の村々を馬で移動しながら、ルーチェは術式を刻み続けた。エドガーが終始同行した。昼は村の住民が用意した食事を一緒に食べ、夕方は侯爵家の宿舎に戻って、翌朝また出かけた。
移動中、二人で話す時間が自然に生まれた。
エドガーは聞き上手だった。ルーチェが付与術の話をしても、領地の課題の話をしても、遮らずに最後まで聞く。それから一言か二言、的を射たことを言う。
前世でいえば、会議で一番信頼できるタイプだ、とルーチェは思った。
三日目の朝、馬を並べて走りながら、エドガーが聞いた。
「この村を立て直そうと思ったのは、なぜか」
「逃げ場がなかったので」
「逃げ場」
「王都には戻れなかったし、実家にも居場所がなかったし。行けるのが廃村しかなかっただけです」
エドガーはしばらく黙っていた。
「それだけの理由で、あそこまでやれるものか」
「やり始めたら面白くなったので」
エドガーが、小さく笑った。
ルーチェは少し驚いた。エドガーが笑うのを初めて見た気がした。口元がほんの少し動いただけだったが、確かに笑っていた。
作業がすべて終わった夕方、エドガーが「報酬は」と聞いた。
ルーチェは少し考えた。
「村に必要な資材を融通していただけますか。木材と石材が足りていなくて。それで十分です」
エドガーが少し表情を変えた。
「金銭で受け取らないのか」
「今の村には使い道よりも材料のほうが必要なので。それに侯爵家から融通していただければ、質のいいものが手に入りますし」
エドガーはしばらくルーチェを見ていた。
「……わかった。手配する」
それだけ言って、前を向いた。
帰り道、馬を並べながら、エドガーが唐突に聞いた。
「なぜ王都に戻らないのか」
ルーチェは少し考えた。
「戻る理由がないので」
「実家がある。知り合いもいる」
「実家には居場所がありませんでした。知り合いは……もともと、そんなに多くなかったです。婚約者経由の付き合いばかりでしたから、婚約がなくなれば自然と」
「寂しくはないか」
「ダレンに来てから、寂しいと思う暇がないので」
エドガーが何かを言いかけた。
口を開いて、でも言葉が出てこないまま、少しの間があった。
それから、「そうか」とだけ言って、前を向いた。
何を言おうとしたのか、ルーチェにはわからなかった。




