第六話「侯爵閣下、思ったより静かな人だった」
エドガー・ハーヴェイ侯爵は、辺境の番人と呼ばれる男だ。
冷血で、寡黙で、笑わない。王都の貴族たちとは一線を画し、辺境の領地にこもって領民を厳しく統治する。そういう噂をルーチェは道中の宿で耳にしていた。フィリップに「侯爵閣下にお目にかかるかもしれない」と言われたときも、その噂を思い出して、少し気を引き締めた。
だから準備はしていた。
書類は一式揃えた。受け答えの想定問答も考えた。万が一強硬な態度に出られた場合の法的根拠も確認した。前世の総務担当として、難しい交渉相手への対応は慣れている。
ただ一点だけ、想定が外れていた。
エドガー・ハーヴェイ侯爵が村に現れたとき、ルーチェはちょうど泥だらけで水路を掘っていた。
新しく引いた水路の勾配を確認しながら土を掘っていると、村の入り口のほうから静かな足音が聞こえた。
馬のひづめの音ではなかった。人の足音だ。複数。
ルーチェが顔を上げると、村の入り口に三人の男が立っていた。真ん中の男が目に入った瞬間、ルーチェは「あ、これが侯爵か」と直感した。
理由はうまく言えない。ただ、立ち方が違った。威圧的なわけではない。高圧的な雰囲気もない。ただ静かに立っているだけなのに、その場の空気が少し変わった気がした。
三十代半ばから後半だろうか。背が高く、日焼けした肌に、短く整えた黒髪。騎士の礼装ではなく、動きやすい実用的な服を着ている。腰に剣は帯びているが、飾りではなく本当に使う人間の持ち方だ。
隣にフィリップがいる。
ルーチェは泥のついた手を革の切れ端で拭いながら立ち上がった。膝に泥がついている。服の袖も泥だらけだ。
最悪の第一印象だな、と思ったが、どうしようもない。
「ルーチェ・アルヴィスです。お待ちしていました」
頭を下げると、男が静かに言った。
「エドガー・ハーヴェイだ。突然で申し訳ない」
声が低く、落ち着いていた。噂の「冷血な番人」という印象とは、少し違う。静かではあるが、冷たいというより、余計なものを削ぎ落とした感じがする。
エドガーが村の中を見渡した。
補修された家屋、畑の緑、井戸から続く水路。カルロスが木材を組んでいる音が遠くから聞こえる。
「ずいぶん変わったな」
ひとことだった。感嘆でも批評でもなく、ただ事実を確認するような言い方だった。
「三週間の成果です」
ルーチェは泥だらけのまま答えた。
「以前はどういう状態だったか知っているので、変化がわかる」
以前から知っている。やはり、あの丘の人影は——
「少し、村を見せてもらえるか」
「どうぞ」
ルーチェはエドガーを案内して、村の中を歩き始めた。
歩きながら、エドガーが質問をした。
「井戸の水は安定しているか」
「はい。毎朝確認していますが、水量に変動はありません」
「水路はどこまで引く予定か」
「まず畑まで。次に各家屋の近くまで引ければ、水汲みの手間が省けます」
「土壌の状態は」
「付与術で改善中です。来週には種を蒔けると思います」
「魔物の痕跡は確認しているか」
「北側の森に中型の爪痕がありました。一ヶ月ほど前のものと思われます。結界の付与は来週以降に予定しています」
エドガーはうなずいて、次の質問に移った。
ルーチェは答えながら、内心で少し驚いていた。
質問が、的確すぎる。
水量、土壌、魔物の痕跡——これは現場を知っている人間の質問だ。書類上の数字を確認したいのではなく、実際の状態を把握しようとしている。書類を読んだだけの人間には出てこない視点だ。
前世でいえば、現場経験のある上司タイプだ。
「できる人だ」とルーチェは思った。口には出さなかったが。
「北側の結界は早めに打ったほうがいい」
エドガーが言った。
「この時期、山から降りてくる魔物が増える。中型の痕跡があったなら、群れで来る前に対策をしておくべきだ」
「そうなのですか。この辺りの魔物の動きについて、もう少し教えていただけますか。来たばかりで、地元の事情に疎くて」
エドガーが少し意外そうな顔をした。
「自分から教えを乞うのか」
「知らないことは聞くのが一番早いので」
エドガーはまた少し間を置いてから、答えた。
「春から初夏にかけて、北の山で魔物の繁殖期がある。縄張りを求めて南下してくるものが出る。大型ではないが、村に入り込むと厄介だ。例年、この辺りの村は木の柵と簡易な結界で対応している」
「付与術の結界で代替できると思います。木の柵より長持ちしますし、範囲の調整もできます」
「術師が一人でどれだけの範囲をカバーできる」
「村の周囲を一周する規模なら、二日あれば。ただし材料の石を用意する必要があります」
「石なら北側の河原に使えるものがある。案内できる」
ルーチェは少し驚いた。
管轄の領主とはいえ、自ら材料の調達まで手伝うとは思っていなかった。
「ありがとうございます。助かります」
「村が荒れると困るのはこちらも同じだ」
実務的な答えだったが、ルーチェには十分だった。
村を一周して、出発点に戻ったころ、日が傾き始めていた。
エドガーが馬のそばに戻る。フィリップと護衛の騎士が後ろに控えている。
「いくつか確認できた。改めて礼を言う」
「こちらこそ、有益な情報をありがとうございました」
エドガーが馬に足をかけたところで、ふと止まった。
振り返って、ルーチェを見る。
「一つ聞いてもいいか」
「どうぞ」
「井戸に付与した術式——水脈を探知して流れを誘導するものだと聞いた。あれはどういう術式構成になっている」
ルーチェは少し考えた。
専門的な質問だ。
「大きく分けて二段階です。まず探知用の石で水脈の位置と深度を測ります。次に誘導用の石に水脈の座標を組み込んだ術式を刻んで、井戸の底に設置します。術式の核は水の流れに干渉する紋章で——少し複雑なので、紙に書いたほうが伝わりやすいですが」
「なるほど」
エドガーが考えるような顔をした。
「実は侯爵領にも、ここ数年で枯れた井戸がいくつかある。住民が水の確保に苦労している村が複数ある」
「それは大変ですね」
「あなたの術式が使えるなら、助かる住民がいる。もし可能なら、また話を聞かせてもらえないか」
個人的な依頼だった。管轄の確認や書類のやり取りではなく、問題を解決するための、直接の依頼。
ルーチェはうなずいた。
「喜んで。日程を合わせていただければ、伺います」
エドガーが、ほんの少し、表情を動かした。固さが一枚取れた、という感じだった。
「ではまた連絡する」
「お待ちしています。アポイントはフィリップさん経由でも構いません」
フィリップが後ろで「またですか」という顔をしたが、口には出さなかった。
エドガーが馬を走らせた。護衛の騎士たちが続く。蹄の音が遠ざかっていく。
ルーチェはしばらくその背中を見ていた。
噂の「冷血な番人」は、思ったよりずっと実直な人だった。口数は少ないが、聞く耳を持っている。現場を知っている。無駄なことを言わない。
前世でいえば、一緒に仕事がしやすいタイプだ。
そう思ったところで、ルーチェは「仕事の相手として分析するのは少し失礼だったかもしれない」と少しだけ反省した。
「あの人、最初から何度もここを見に来てたよ」
背後から、グレタの声がした。
ルーチェは振り返った。グレタが杖をつきながら、エドガーが消えた方向を眺めている。
「……何度も、ですか」
「お前が来た翌日から。丘の上から何度も眺めとった。わしは目が悪いから最初は馬かと思ったが、人間だった」
ルーチェは少し考えた。
翌日から、ということは——ルーチェが村に来た翌日から、エドガーはずっと様子を見に来ていた。
フィリップに確認を命じたのも、通知を出したのも、最初から動向を把握した上での行動だったのかもしれない。
「知っていたのに、なぜすぐ声をかけなかったのでしょう」
「さあな」
グレタがルーチェを横目で見た。
「でも今日、初めて馬から降りて歩いてきた。それがどういうことかは、わしにはわかるが」
「どういうことですか」
グレタは答えなかった。ただ、口元だけで笑って、杖をつきながら家に向かって歩き始めた。
ルーチェは少しの間、グレタの背中を見ていた。
何かを言いたそうで、言わない。グレタはそういう老婆だった。
ルーチェは工具箱に向き直って、作業記録を開いた。
「エドガー・ハーヴェイ侯爵、来村。村の視察。枯れ井戸の修復依頼を受ける。北側の石材調達について協力の申し出あり」
書き終えてから、少し迷って、もう一行書き足した。
「来村翌日から丘で見ていたとグレタが言っていた。今日、初めて馬から降りて歩いてきた。理由は不明」
記録はしておくものだ。
いつか、意味がわかるかもしれない。




