第五話「侯爵家の使者が来た」
騎士が来たのは、三日後の朝だった。
ルーチェが工具箱の整理をしていると、村の入り口のほうからひづめの音が聞こえた。顔を上げると、銀の紋章をつけた甲冑姿の男が馬から降りるところだった。体格がよく、背筋がまっすぐで、いかにも「正式な使者です」という雰囲気をまとっている。
ルーチェはノートに栞を挟んで、立ち上がった。
来ると思っていた。来るならもう少し早いかと思っていたが、三日後というのはまあ妥当な頃合いだ。書類は前日の夜に改めて確認して、順番に並べて紙袋に入れておいた。
「ルーチェ・アルヴィスと申します。何かご用でしょうか」
ルーチェが声をかけると、騎士がこちらを向いた。三十代半ばくらいだろうか。顎がしっかりした、実直そうな顔をしている。
「ハーヴェイ侯爵家領地管理部、フィリップ・ケントと申します。先日の通知の件で参りました」
フィリップが胸に手を当てて一礼した。礼儀正しい。
「こちらの土地はハーヴェイ侯爵家の管轄内です。事前の申告なしに開拓および居住行為を行った件について、釈明をいただく必要があります」
声は穏やかだが、言葉には圧がある。圧し負けると思って来ているのだろう。
ルーチェは紙袋を差し出した。
「どうぞ、全部書いてあります」
フィリップが目をしばたいた。
「……は?」
「書類です。必要なものは全部入っています。確認していただければ」
フィリップはしばらくルーチェと紙袋を交互に見た。それから、おずおずと紙袋を受け取った。
フィリップが書類を確認するあいだ、ルーチェは村の入り口脇にある丸太の上に腰を下ろして待った。
フィリップが最初の書類を広げる。
土地の権利書だ。ルーチェの祖父からの相続記録、所有権の移転届、現在の名義人がルーチェ・アルヴィスであることを示す証明書。全部揃っている。
フィリップが二枚目を広げる。
開拓届の写しだ。ルーチェがダレン村に来る二週間前に、王都の行政窓口に提出してある。受付印が押されている。
フィリップが三枚目を広げる。
住民名簿。現在の村の住人六名の名前、年齢、来村日、担当業務が一覧になっている。グレタの欄には「元からの居住者」と書いてある。
フィリップが四枚目を広げる。
作業記録だ。ルーチェが村に来た日から今日までの毎日の作業内容、使用した術式、補修した家屋の状態、畑の整備状況が日付つきで記録されている。十四日分ある。
フィリップの手が、少し止まった。
「……開拓届が、来村前に提出されています」
「はい。法律を確認したところ、開拓前に提出が必要とあったので」
「どこで調べたのですか」
「王都の法務書庫です。辺境の土地開拓に関する条例は第三十七条に記載があります。ハーヴェイ侯爵家の管轄内への届け出は、領主館か王都の行政窓口で受け付けとあったので、王都の窓口に出しました。写しを一部領主館にも送付しています。受領確認の書状が返ってきていないのが気になっていましたが」
フィリップがまた止まった。
今度は少し長い沈黙だった。
「……送付されていたのですか」
「三週間ほど前に。届いていませんでしたか」
フィリップが何とも言えない顔になった。おそらく領主館の内部で書類が迷子になったのだろう、とルーチェは推測した。どこの組織にも一定数、書類処理が苦手な人間はいる。前世でもよくあることだった。
「……作業記録まで、毎日つけていらっしゃるのですか」
「当然ではないでしょうか。何か問題が起きたときに記録がないと困りますから」
フィリップは書類の束をもう一度最初からめくった。表紙、権利書、開拓届、住民名簿、作業記録。全部で二十枚以上ある。
「……これほどの書類を、個人で……」
「必要なものを必要なだけ揃えただけです。何か不足はありましたか」
「いえ」
フィリップがゆっくりと首を横に振った。
「不足どころか……正直なところ、我が侯爵家の内部書類より整っています」
ルーチェは「それは大変ですね」と言った。組織の書類管理が甘いと後で必ずしわ寄せが来る。前世で何度も見てきた光景だ。
フィリップが、ぼそりと言った。
「実は今回の件は……侯爵閣下が、あの廃村に誰かいるという報告を受けられて、確認のために参るよう申しつかったものでして」
「そうでしたか」
「違反摘発というより、状況確認が主な目的だったのです。まさかここまで書類が整っているとは……」
ルーチェは立ち上がって、紙袋を受け取った。
「書類に問題がないようでしたら、作業に戻ってもよいですか。午後に畑の残り三分の一を仕上げる予定なので」
フィリップがまた何とも言えない顔をした。
「あの、一点だけよいですか」
「はい」
「ここを、一人で立て直されているのですか」
ルーチェは少し考えた。
「今は六人います。一人ではありません」
「来て二週間で、六人を」
「噂が広まるのが早かったようです」
フィリップは村の中を見渡した。補修された家屋、畑の緑、井戸から水を汲んでいるシルビアの姿。カルロスが木材を加工する音が、どこかから聞こえてくる。
「……すごいですね」
素直な感嘆だった。ルーチェは「ありがとうございます」と答えた。
フィリップが帰り支度を始めたとき、ふと立ち止まった。
「一つ、お伝えしておくことがあります」
「何でしょう」
「侯爵閣下が、じかにお会いになりたいとおっしゃるかもしれません。管轄内でこれほどの動きがあれば、閣下が気にされるのは当然のことで」
ルーチェはうなずいた。
「構いません。いつでもどうぞ。事前にアポイントを入れていただければ、こちらも準備できます」
フィリップが固まった。
「……アポイント、ですか」
「予定の調整です。突然いらっしゃると、こちらが作業中のことがありますので」
「侯爵閣下に……アポイントを……」
フィリップが何か言いたそうにしていたが、結局口を閉じた。実直そうな顔が、少し困惑に染まっている。
「では、閣下にそのようにお伝えします」
「お願いします」
フィリップが馬に乗った。それでもまだ、何か言いたそうな顔のままだった。
「あの、最後に一つだけ」
「はい」
「……怖くないのですか。侯爵家に対して」
ルーチェは少し考えた。
怖いかどうか、と言われれば。
「書類が揃っていれば、特には」
フィリップは長い沈黙の後、深く一礼した。それから馬を走らせた。蹄の音が遠ざかっていく。
「お前、本当に怖いもの知らずだな」
隣からグレタの声がした。いつのまにか横に立っている。
「ずっと聞いてたんですか」
「玄関から出たら聞こえてきた。わしのせいじゃない」
グレタが口元をひくひくさせている。笑いをこらえているときの顔だ。ルーチェにはもうわかるようになってきた。
「侯爵様にアポを取れと言うやつがあるか」
「おかしいですか」
「おかしい。でも」
グレタがとうとう笑った。しわだらけの顔を崩して、声を立てて笑った。杖をついたまま肩を揺らして笑う老婆の姿は、なんだかとても自由そうだった。
「気持ちのいい笑いだな、と思っただけだ」
ルーチェは頭の中のやることリストに「侯爵閣下来訪時の対応資料を作る」と書き加えた。来るなら来るで、準備をしておけばいい。それだけのことだ。
フィリップが去って、村が静かな午後の時間に戻ったころ、ルーチェはふと窓の外を見た。
視線の先、村を見下ろす遠い丘の上。
馬に乗った人影が、こちらを見ている。
距離がある。顔はわからない。ただ、その人影はしばらくじっとこちらを見ていて、フィリップが去った後もその場を動かなかった。
先週も見た気がする。
その前の週も。
ルーチェは目を細めて、もう少し遠くを見ようとした。でも夕暮れの逆光で、人影の輪郭しかわからなかった。
「……気のせいかしら」
呟いた瞬間、人影はゆっくりと馬を返して、丘の向こうへ消えた。
ルーチェは少しの間、丘を見ていた。
それから工具箱に向き直って、今日の作業記録を書き始めた。「侯爵家使者来訪。書類確認済み、問題なし」と書いてから、少し迷って「丘の上に人影あり。三度目」とも書き添えた。
記録はしておくものだ。何の役に立つかは、後でわかる。
これも前世から変わらない、ルーチェの癖だった。




