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「婚約を断られた付与術師は、辺境で勝手に国を建てていました ~気づいたら侯爵様が押しかけてきたのですが~」  作者:


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第三話「付与術師は農業と土木をやり始めた」

 水が出た翌日。


 ルーチェは夜明けとともに畑の前に立っていた。


 空はまだ薄暗い。東の稜線がほんのり白みかけているだけで、村の中はしんと静まり返っている。足元の土は夜露で湿っていて、靴の先がじわりと冷たくなった。


 前世の記憶によれば、環境整備というのは最優先でやるべきことだ。


 総務担当として十一年。新しいオフィスに引っ越すたびに、あるいはシステムを入れ替えるたびに、最初にやるのはいつも「使える状態にする」ことだった。机の配置でも、書類の棚でも、まず基盤を整えなければ他のことが何もできない。


 この村でいえば、水の次は食料だ。


 畑が動かなければ、人は来ない。来ても続かない。


 ルーチェはノートを開き、昨夜書き出した手順を確認した。


 まず土壌の状態を確認する。それから付与術で補う。順番を間違えると術式がうまく馴染まないことがある。付与術というのは、対象の状態に合わせて術式を調整しないといけない繊細な仕事だ。


 しゃがみ込んで、両手で土をすくった。


 握ってみると、ぱらぱらと崩れる。水分も養分も足りていない。長い間放置された土の、疲れた感触だった。ただ、石の多い土よりはずっとやりやすい。前世の知識でいえば、有機物を補えば十分回復できる土質だ。


 「それで、何をするつもりだ」


 背後からグレタの声がした。


 振り返ると、老婆が杖をつきながら立っていた。こんな朝早くにもう起きているらしい。


 「畑に術式を入れます。土壌を活性化させる付与と、虫を防ぐ結界と、成長を促す付与を組み合わせて使います」


 「そんなもんで本当に育つのか」


 「やってみないとわかりません」


 グレタが眉をひそめた。


 「昨日もそんなことを言っておったな」


 「言いました。でも水は出ました」


 沈黙。


 グレタはしばらくルーチェを見てから、ふん、と鼻を鳴らした。


 「手伝ってやる。一人じゃ時間がかかるだろう」


 「助かります。では、この石を三歩おきに土の中に埋めてもらえますか。深さはこれくらい」


 ルーチェは自分の手のひらを示した。グレタが「そんな浅くていいのか」と言ったので、「付与術は深すぎると地表に届きにくくなります」と説明した。グレタはまた黙って、ふん、と言ってから石を受け取った。



 二人で黙々と作業した。


 ルーチェが石に術式を刻み、グレタが指定された間隔で土に埋めていく。会話はほとんどなかった。グレタは口は悪いが手は丁寧で、埋める深さも間隔も、ルーチェが指示した通りにきちんとやってくれた。


 作業しながら、ルーチェは三種類の術式を並行して刻んでいた。


 【土壌活性化】——これが一番複雑だ。土の中の微細な構造に働きかけて、水分と養分の保持力を高める。術式の文字数も多いし、刻む精度も要る。


 【防虫結界】——こちらは比較的シンプルだ。特定の波長の魔力を境界石に付与して、虫が嫌がる環境を作る。ただし加減を間違えると受粉を助ける虫まで追い払ってしまうので、排除する対象を術式で絞り込む必要がある。


 【成長促進】——これは補助的なものだ。植物の成長を魔力で後押しする。劇的な効果はないが、他の二つと組み合わせることで相乗効果が出る。


 ルーチェが前世から持ち込んだ知識の中で、農業に関するものはあまり多くない。ただ、総務担当時代に「環境の整備がアウトプットの質を決める」という原則は骨の髄まで叩き込まれていた。それを付与術に置き換えれば、大体の方向性は見える。


 昼前に畑の三分の一が終わった。


 ルーチェが立ち上がって背中を伸ばすと、ぼきぼきと音がした。グレタが「年寄りみたいな音を出すな」と言った。


 「グレタさんのほうが年上です」


 「わしは丈夫なんだ」


 ルーチェは笑いながら、水筒の水を飲んだ。



 午後は家屋の補修に移った。


 使えない家を使えるようにする——これも環境整備の一環だ。人が増えれば住む場所が要る。今のうちに手を打っておく必要がある。


 石壁が崩れた家の前に立って、ルーチェは状態を確認した。


 屋根は半分が落ちている。壁は三面が残っていて、一面が大きく崩れていた。床は木材が腐っていて、踏むとぎしぎしと危ない音がする。


 工具箱から石を取り出す。今度は少し赤みがかった、平べったい石だ。


 【強化】の術式を刻む。これは石材や木材の内部構造を固める付与で、経年劣化を抑えて強度を上げる。建築には欠かせない術式だが、大量に刻むのは体力がいる。魔力を消費する量が多いからだ。


 それでも、やる。


 前世の締め切り前夜の感覚で、ルーチェは術式を刻み続けた。


 壁の石一つひとつに【強化】を付与しながら積み直す。崩れた部分を補修する。屋根の残った梁に【防水】を加えて、雨に強くする。床の腐った部分は一度剥がして、新しい木材を——手持ちがないので、とりあえず今日は残せる部分だけ残して、後日調達することにした。


 グレタが石材を運ぶのを手伝ってくれた。


 老婆とは思えない力があった。一抱えもある石を、よいしょとも言わずに持ち上げる。


 「グレタさん、お強いんですね」


 「辺境の人間はみんなこんなもんだ」


 「村に戻ってきてもらえそうな人は、周りにいますか」


 グレタは少し考える顔をした。


 「三年前に出ていった連中なら、何人かは近くの町にいるはずだ。でも戻ってくるかどうかは別の話だぞ」


 「そうですね。まずここを住める状態にしてからですね」


 「あたり前だ」


 グレタが運んできた石を壁の隙間に嵌め込みながら、ルーチェは頭の中で計算した。家屋が三軒使えるようになれば、十人前後は住める。畑が軌道に乗れば食料の目処が立つ。そこまで行けば、人を呼べる。


 一つひとつ、順番に片付けていけばいい。


 焦らなくていい。前世の経験でわかっていた。大きな問題というのは、小さな問題の積み上げでしかない。一つ解決するたびに、次が見えてくる。


 夕暮れが近くなる頃には、家屋一軒の補修がおおよそ終わっていた。


 完璧ではない。屋根はまだ半分しかない。でも壁は立って、床は踏んでも安全になった。風も雨も、以前よりずっとしのげる。


 ルーチェは汗を拭いながら、完成した壁を眺めた。


 手が痛かった。肩も腰も張っている。でも妙に気持ちよかった。前世の締め切り直後に似た、やり切った後の感覚だ。



 「飯、食ってけ」


 グレタがぶっきらぼうに言ったのは、ルーチェが工具箱を片付け始めたときだった。


 「よろしいんですか」


 「よろしくなきゃ言わん」


 グレタの家は、村で一番状態のいい家だった。小さいが、きちんと手入れがされていて、壁にはドライフラワーが束ねて飾ってある。鍋の前に立ったグレタが、慣れた手つきで野菜を切り始めた。


 「何か手伝えることはありますか」


 「座ってろ。邪魔だ」


 言われた通り、ルーチェは小さな椅子に座った。


 鍋からスープの匂いが漂ってきた。玉葱と根菜の、素朴な匂いだ。前世の記憶にも、この世界の記憶にも、どちらにも似た匂いがある。温かい食事の匂いというのは、どこでも同じらしい。


 二人で向かい合ってスープを食べた。


 味付けは塩だけだったが、ちゃんとおいしかった。


 しばらく黙って食べてから、グレタがぽつりと言った。


 「昔、この村には三十人いた」


 ルーチェは顔を上げた。


 「一番多かったのは、わしが若い頃だ。子どもも走り回っておったし、収穫の季節になると隣の村からも人が来て、賑やかだった。それが少しずつ、少しずつ減っていって」


 グレタはスープを一口飲んだ。


 「最後の一家が出ていったとき、わしも一緒に行けばよかったと思った。でも行けなかった。ここがわしの村だから」


 ルーチェは少し考えてから、答えた。


 「また三十人、呼びましょう」


 グレタが顔を上げた。


 「できるのか」


 「やってみないとわかりません」


 「また同じことを言う」


 「でも水は出ました」


 グレタはルーチェをじっと見た。それからゆっくりと、顔のしわを深くして、笑った。


 初めて見る、グレタの笑顔だった。


 意地っ張りの老婆が笑うと、こんな顔になるのか、とルーチェは思った。案外、かわいらしい笑い方をするものだ。



 その夜、ルーチェは自分に割り当てた家に戻って、ノートに今日の作業記録を書き込んだ。


 畑:三分の一完了。残り三分の二は明日以降。

 家屋補修:一軒完了。残り二軒着手待ち。木材の調達が必要。

 課題追加:種の調達、木材の調達、周辺の町との取引先開拓。


 書きながら、グレタの言葉を思い出した。


 昔、この村には三十人いた。


 三十人という数字は、ルーチェには一つの目標に聞こえた。三十人が暮らせる村。三十人分の水と食料と家。それだけあれば、村と呼べる。


 一人で三十人分を作るのは難しい。でも一人が二人になり、二人が五人になれば、できることは増えていく。前世で組織を動かしてきたのと同じ原則だ。


 ルーチェはノートに「目標:人口三十人」と書いた。


 それから「当面の目標:まず一人呼ぶ」と書き足した。


 大きな目標は、小さな一歩から始まる。それも前世で何度も繰り返してきた教訓だった。



 翌朝、ルーチェが目を覚ましたのは、村の入り口のほうから声がしたからだった。


 目をこすりながら外に出ると、村の入り口に見知らぬ若い男が立っていた。二十歳前後だろうか。薄汚れた旅装束で、大きな荷物を背負っている。


 男はルーチェを見つけると、ぱっと顔を明るくした。


 「あの、すみません。ここ、人を雇ってるって本当ですか」


 ルーチェは一瞬、固まった。


 「……どこで聞きましたか」


 「近くの町の宿で、噂になってまして。廃村を一人で立て直してる付与術師がいるって。人手を探してるらしいって」


 噂が、もう広まっていた。


 ルーチェはしばらく男の顔を見た。疲れた顔をしているが、目に力がある。荷物の持ち方を見ると、力仕事に慣れていそうだ。


 「名前は」


 「カルロスです。大工の仕事をしていましたが、今は行き場がなくて」


 大工。


 ルーチェの頭の中で、昨夜のノートの文字が光った。木材の調達、家屋補修の続き。まさに今日から必要な人材だ。


 「タイミングがいいですね」


 「え?」


 「ちょうど木材と腕のある人が必要でした。住む場所と食事は出せます。給金はもう少し村が安定してからになりますが」


 カルロスが目を丸くした。


 「あの、もう少し話を聞いてから決めなくていいんですか」


 「必要な情報は聞きました。大工ができる。今すぐ動ける。それで十分です」


 前世の採用面接でも同じことをよく言われた。「もう決めたんですか」と。でも必要な情報が揃えば、決断は早いほどいい。それが総務担当の流儀だった。


 カルロスはまだ少し驚いた顔をしていたが、やがてゆっくりと笑った。


 「わかりました。よろしくお願いします」


 「こちらこそ。荷物を置いたら、まず補修が必要な家を見てください。木材の見積もりをお願いします」


 「え、今日からですか」


 「何か問題がありますか」


 「……いえ、ないです」


 ルーチェは目標一人達成、とノートの端に小さく書き込んだ。


 小さな一歩は、もう始まっていた。


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