第二話「廃村の現状」
廃村ダレン——地図には、たしかに載っている。
馬車を降りたルーチェの目の前にあったのは、腰丈まで伸びた雑草と、崩れかけた石壁と、一軒だけ煙突から細く煙が上がっている家だけだった。
沈黙。
御者が気まずそうに咳払いをした。
「あの、お客さん。本当にここでよろしいので?」
「ええ、ここです。ありがとうございました」
ルーチェは荷物を降ろして、代金を払った。御者は何か言いたそうな顔をしていたが、ルーチェが笑顔で会釈すると、もう一度咳払いをして馬車を走らせた。
蹄の音が遠ざかる。
あとに残ったのは、風の音と、どこかで鳴いている鳥の声だけだった。
ルーチェは荷物を持ち直して、村の中に踏み込んだ。
まず、全体を把握する。
それが前世の総務担当時代から変わらない最初の手順だった。問題を解決するには、まず問題の全容を知らなければいけない。感情より先に、情報を集める。
ルーチェはノートを開きながら、一軒ずつ見て回った。
石造りの家が七軒。そのうち屋根が残っているのは三軒。残り四軒は屋根が抜け落ちていて、内部に雑草が生えている。床に穴が開いているものもある。壁も、手で押せばぐらつくほど風化が進んでいた。
井戸は村の中央に一基。覗き込むと、底が見えた。完全に枯れている。
畑だったと思われる区画は、石垣の形だけ残して全面雑草に覆われていた。土の色は悪くない。栄養が足りていないだけで、耕せば使えるかもしれない。
魔物の痕跡は——と周囲を確認すると、村の北側の木の幹に爪痕があった。中型の魔物だろう。ただし新しくはない。今すぐ危険というわけではなさそうだ。
ノートに書き出していく。
①水源:井戸が枯れている。水脈を探す必要あり。
②住居:七軒中三軒のみ使用可能。補修が必要。
③食料:畑区画あり。土質は悪くない。種が必要。
④魔物対策:北側に痕跡あり。結界の付与を検討。
「何しに来た」
背後から、しわがれた声が聞こえた。
振り返ると、杖をついた老婆が立っていた。年齢はかなりいっているはずだが、目つきだけはやたらと鋭い。腰は曲がっているのに、立ち姿になぜか圧がある。
「土地の権利者です。ルーチェ・アルヴィスと申します」
ルーチェは丁寧に頭を下げた。
「ここに住みに来ました」
老婆は少しの間、ルーチェをじろじろと眺めた。上から下まで、値踏みするような視線だった。
「一人か」
「今のところは」
「荷物がそれだけか」
「必要なものは大体入っています」
老婆はまた少し黙った。それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「グレタだ。この村に残った最後の住人だ。三年前から一人でいる」
「グレタさん。よろしくお願いします」
「よろしくなんぞしてやらん。邪魔なら出ていってもらう」
「承知しました」
ルーチェはノートに「グレタ・住民一名・協力未定」と書き足した。グレタがまた値踏みするような目でそれを眺めていたが、特に何も言わなかった。
その日の午後は、村の状態の詳細確認に使った。
屋根が残っている家のうち、一番状態のいいものをルーチェの居住スペースに決めた。荷物を運び込み、床の埃を払い、壁のひびに【補強】の付与を軽くかけておく。本格的な修繕は後回しだ。今日中にやるべきことがある。
井戸だった。
枯れた井戸の前にしゃがみ込んで、ルーチェは工具箱から小ぶりな石を取り出した。灰色の、掌に収まるくらいの石だ。
付与術師の道具というのは、基本的に地味なものだ。派手な炎を出すわけでもなく、剣を振るうわけでもない。石や木材や金属に術式を刻み込んで、特定の効果を付与する。それだけの仕事だ。
派手な実績が作れなかった、とロデリックは言った。
たしかにそうかもしれない。でも地味な仕事が嫌いかと言われれば、そんなことはない。
ルーチェは石に【水脈探知】の術式を刻み始めた。細かい作業だ。爪先ほどの面積に、小さな文字を連ねるように術式を書き込んでいく。集中が要る。でもこういう作業は、前世の書類仕事に似ていて、ルーチェは嫌いではなかった。
二十分ほどで術式が完成した。
石を井戸の底に向けてそっと落とす。かすかに光が灯り、すぐ消えた。
目を閉じて、感覚を澄ます。
付与術の感覚は人によって違うと聞くが、ルーチェの場合は「引っ張られる感じ」として来る。水脈がある方向に、術式が反応する。それを読み取る。
——ある。
地下、かなり深いところ。斜め北東の方角。深さはおそらく二十メートル前後。
ルーチェは目を開けて、次の石を取り出した。今度は少し大きめの、白っぽい石だ。これに【水流誘導】を刻む。水脈の位置に合わせて術式を調整しながら、角度と深度を指定していく。こちらは少し複雑な術式なので、三十分ほどかかった。
グレタがいつのまにか後ろに立って、黙って見ていた。
「何書いてんだ」
「水を引く術式です。これを井戸の底に埋めると、地下の水脈から水が上がってくるはずです」
「はずって何だ、はずって」
「まだ試したことがないので」
グレタが微妙な顔をした。ルーチェは構わず、術式を仕上げた石を井戸の底に向けて慎重に投げ込んだ。石が底に当たる音がした。
しばらく待った。
何も起きなかった。
グレタが「やっぱりな」と言いかけた瞬間、かすかな音がした。
ごぼ、という、水が動く音だった。
翌朝だった。
夜明けとともに目が覚めたルーチェが井戸へ行くと、縄を下ろした桶が、水を満たして戻ってきた。
冷たい、澄んだ水だった。
手に受けて飲んでみると、土の味がする。地下水特有の、ほんの少しだけ鉱物質な味。悪くない。むしろおいしい部類だと思う。
「……出たか」
グレタがいつのまにか隣に立っていた。桶の中を覗き込んで、老婆はしばらく黙っていた。
「三年だ」
小さな声だった。
「この村の井戸が枯れて、三年になる。川まで毎日汲みに行っとった。片道一時間かかるんだぞ」
「それは大変でしたね」
「馬鹿にしてるのか」
「していません。本当にそう思っています」
グレタはまたルーチェをじろじろと眺めた。今度の目つきは、最初よりほんの少し、柔らかかった。気がした。
「一杯飲め」
グレタが桶から木のカップで水をすくって、ルーチェに差し出した。ルーチェはもう一度飲んだ。やはりおいしかった。
「ありがとうございます」
「礼を言うな。気持ち悪い」
二人で並んで、しばらく井戸の水を眺めた。
ルーチェは胸の奥に、じわりと温かいものが広がるのを感じた。婚約破棄されてからずっと、胸の中にあった冷たい重さが、少し溶けた気がした。
「これ、できるじゃないですか」
思わず声に出ていた。
グレタが「何が」と言う。
「いえ。独り言です」
でも本当にそう思った。一人で廃村に来て、課題をリストアップして、手を動かしたら、水が出た。それだけのことかもしれないけれど。
自分の付与術が、ちゃんと役に立った。
誰かに「実績がない」と言われ続けた術式が、三年間水を運び続けた老婆の足を、今日から楽にする。
それは、ルーチェにとって十分すぎるくらいの実績だった。
ふふ、と笑いが出た。婚約破棄されてから初めての、本物の笑いだった。
グレタが「何がおかしい」と言ったが、ルーチェは笑いながら「何でもないです」と答えた。
その夕方のことだ。
次の課題を考えながら村の外れを歩いていたルーチェは、ふと視線を感じて顔を上げた。
遠く、村を見下ろす丘の上。
馬に乗った人影が、こちらを見ていた。
距離があるので顔はわからない。ただ、その人影はしばらくじっとこちらを見ていて——それからゆっくりと馬を返して、丘の向こうへ消えていった。
通りすがりだろうか。
領地の確認をしている誰かだろうか。
ルーチェはノートに「要確認:周辺の領主について調べる」と書き足してから、次の課題に目を移した。今夜中に、畑の土質調査を終わらせなければならない。
丘の上の人影のことは、すぐに忘れた。
忙しい人間というのは、気になることを後回しにする生き物だ。それも前世から変わっていない癖だった。




