第一話「婚約を断られた日」
「ルーチェ・アルヴィス嬢、あなたとの婚約は本日をもって解消とさせていただきます」
そう告げられた瞬間、ルーチェの頭に浮かんだのは今夜の夕飯のことだった。
たしか昨日、台所の棚に干し肉が残っていた。玉葱も半分ある。スープにするなら今夜がちょうどいい頃合いだ。帰ったら火を入れよう。
広間に集まった貴族たちの視線が、一斉にこちらへ注がれるのを感じた。憐れみ、好奇心、それからほんの少しの優越感。人が不幸を目撃するときの顔というのは、どの世界でも大体同じらしい。
前の世界でも、何度か見た顔だ。
婚約相手はロデリック・シュタイン子爵令息。栗色の髪をきちんと撫でつけた、見た目だけは整った青年だった。隣に立っているのは誰だろう。薄桃色のドレスを着た令嬢が、不安そうにロデリックの袖をつかんでいる。
なるほど。大体の事情は把握した。
「理由をお聞きしてもよいですか」
ルーチェは努めて穏やかな声で言った。別に詰問するつもりはない。ただ書類仕事というのは理由の欄を埋めないといけない、という前世の習慣が抜けないだけだ。
「君は……能力が、平凡すぎる」
ロデリックが目を逸らしながら言った。
「付与術師として腕が立てば話は別だったかもしれないが、特筆すべき実績もない。わが家には、もっと優秀な伴侶が必要なのだ」
前世の記憶が、するりと蘇った。
中小企業の総務担当として十一年。上司に呼ばれて「君には申し訳ないが」と前置きされるあの感覚と、今この瞬間はよく似ていた。有給消化を命じられる前日の、妙な静けさ。
ああ、これは退職勧告だ。
しかも結構丁寧な部類の。
「わかりました」
ルーチェは一礼した。
「お申し出を承ります。婚約解消の書類は明日中に用意します。印鑑証明——失礼、印璽の写しも必要でしょうか。こちらで確認しておきます」
広間がしん、と静まり返った。
ロデリックが微妙な顔をしている。泣くか怒るかすると思っていたのだろう。ルーチェには経験上わかっていた。こういう場面で感情的になっても何も解決しない。大切なのは後処理を素早く終わらせることだ。
「……それだけか」
「それだけです。他にご要望があればどうぞ」
沈黙。
ルーチェはもう一度礼をして、広間を出た。背後で誰かがひそひそ話す声が聞こえたが、振り返る気にはなれなかった。
廊下を歩きながら、頭の中でリストを作り始める。やること:①婚約解消書類の作成、②両親への報告、③今後の生計について検討。優先順位は②、③、①の順で——
扉の外に出たところで、はじめてため息をついた。
深く、長い息。
別に、悲しくないわけではなかった。ただ、悲しさより先に「次に何をすべきか」が来てしまう性分は、前世から変わっていない。泣くのは後回し。いつもそうだった。
夕飯のスープの件は、もう少し後で考えよう。
実家に戻ったルーチェを待っていたのは、両親の沈黙だった。
母は窓の外を向いたまま何も言わない。父は書類を手に持ったまま固まっている。居間の柱時計が、不釣り合いに大きな音で時を刻んでいた。
「……婚約破棄を受けてきました」
ルーチェが言うと、父がようやく口を開いた。
「そうか」
それだけだった。
母が振り返り、「あなたがもう少し付与術を磨いておけば」とぽつりと言った。責めているというより、独り言のような声だった。それが逆に、胸の奥にじわりと沁みた。
磨いていた。磨いていたつもりだった。ただ、どうしても「派手な実績」というものが作れなかっただけで。付与術師というのは縁の下の仕事だ。目立たず、地味に、必要なものを必要な場所に付与し続ける。それがルーチェのやり方だった。
それが足りなかったと言われれば、そうかもしれない。
「少し、自室で考えたいことがあります」
両親に断って、ルーチェは階段を上がった。
自室の机の引き出しを開けて、奥に仕舞い込んでいた書類を取り出した。
日焼けした封筒。母方の祖父が亡くなったときに渡された、土地の権利書だった。
場所は王都から馬車で三日ほどの辺境。地名はダレン。ずっと前に人が住まなくなったと聞いている。使い道もないと思って引き出しの奥に眠らせていたけれど。
権利書を開いて、ルーチェはしばらく眺めた。
前世の記憶が、また語りかけてくる。
——追い詰められたら動け。じっとしているな。
中小企業の総務として十一年間、数え切れないほど繰り返してきた教訓だった。困難が来たとき、その場で固まっていると状況はどんどん悪くなる。動きながら考えろ。手を動かしながら頭を動かせ。
ルーチェは権利書を丁寧に折り畳んで、胸元に仕舞った。
実家に居場所はない。婚約もなくなった。付与術師として王都で仕事を探すには、実績が足りないと言われ続けてきた。
ならば。
実績を作ればいい。
場所は自分で用意すればいい。
翌朝、夜明け前に荷物をまとめた。
着替えが数着。工具箱——付与術に使う各種の石と刻印用の道具。食料が少し。それから、前世の記憶を頼りにこれまで少しずつ書き溜めてきたノート。土壌改良の手順、建築補強の術式、水脈の見つけ方。誰かに見せたことは一度もないノートだった。
両親はまだ寝ている時間だった。
置き手紙を書いた。「辺境のダレン村で付与術師として独立します。心配はいりません」。短い文章だったが、これ以上書く言葉を思いつかなかった。
玄関を出ると、夜明けの空気が冷たかった。
東の空が白みかけている。馬車の乗り場まで歩きながら、ルーチェは深く息を吸った。
悲しいか、と問われれば、悲しい。
情けないか、と問われれば、情けない。
でも今は、それより先に、胸の奥に小さな熱があった。
何かを始める前の、あの感覚。
前世でも知っていた。新しいプロジェクトが動き出す朝の、あの感覚に少し似ていた。
馬車に乗り込んで、ルーチェは革張りの座席にそっと背中を預けた。窓の外、王都の石造りの塔がゆっくりと遠ざかっていく。
荷物の中には権利書と工具箱と、それから総務として培った「何でも段取りをつける癖」だけがある。
これだけあれば、たぶん何とかなる。
前世で十一年かけて学んだことだ。問題は必ず分解できる。分解できれば、優先順位をつけられる。優先順位がつけば、あとは手を動かすだけだ。
「さて」
ルーチェはノートを膝の上に開いた。
「まず現地視察から始めましょうか」
馬車は王都を離れ、辺境へ向かって走り出した。
ルーチェはもうすでに、ノートの新しいページに「ダレン村 課題リスト」と書き始めていた。




